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(株)宮崎建築事務所 〒510-0242 鈴鹿市白子本町5-29 TEL:059-368-3330 宮崎達也 HP:http://miyazaki-archi.nobushi.jp/ mail:3839ttsy@gmail.com カテゴリ
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退院のことを書く前に、今回の入院期間にしていた読書や新聞を読むこと以外のことについて、少し触れてみたいと思います。 何度か書いていますが、ポケットwifiを入手したこともあり、ノートパソコンを使ってなんらかの作業をする時間が増えました。 例えば、2回目の退院の時に、花巻の木材店を見学して、木材を加工する機械を見せてもらったのですが、それを使って加工する、キャットタワーの図面を描きました。 また、パーツを組み合わせて作る、木製棚のデザインを考えたりもしました。 その時は、入院中にでもなにか収入が得られないか、退院してからくいっぱぐれないようにと、いろいろ考えていたのでした。 ただ、退院して1年経った今も、実現には至っていませんので、あまりいい案ではなかったのかも… 外界で行われている催しも気になり、花巻で開催されたリノベーションスクールの、最終プレゼンテーションをネット配信で見ました。 花巻ではリノベーションまちづくりが先進的に始まっていて、その流れで出来たシェアオフィスに、入院前まで私も入会していました。 そこで初めて、全国で開催されているリノベーションスクールが行われるということで、本当は参加したいところだったのでした。 釜石で1,2ヶ月に1回のペースで開催されている、まちづくり勉強会の課題も10月と11月の2回提出しました。 前述したAmazonで取り寄せた本が、その課題図書でした。 毎回、課題図書を読んで、レポートを書くというスタイルでしたが、入院中にするにはうってつけで、いつも以上に、しっかりと推敲を行うことが出来ました。 11月の勉強会ではメンバーにお願いして、リノベーションスクールと同じようにネット配信をしてもらい、病室から参加している気分になることが出来ました。 その他「釜石大観音仲見世構想2017」という、ホームページを作りました。 「ペライチ」という1枚のページだけで作る、ホームページサービスを利用しました。 3年前から活動していた商店街の再生プロジェクトを通して得た知見から、商業地としての魅力、今後の展望や、目標を発表して、出店者の誘致につなげようと。 これも、退院したらすぐに活動を始めるための準備でした。 なにしろ、入院中は全く働くことが出来ないので、不安になって、いてもたってもいられなくなることがあります。 その衝動が、このような動きになって表れていたのでした。 10月26日、この頃、看護学生さんのバイタルサイン測定時の傾聴が楽しみになっていたのですが、この日、お別れになりました。 まだしばらく、夜勤に入ってなんらかの研修が続くということでしたが、それ以降は会わなくなりました。 20歳ぐらいの女性と話をする機会はめったにないので、向こうが傾聴するというよりは、こちらが質問して、その年代の女性の動向をさぐるというベクトルになっていましたが。 以前、オガール紫波を作った岡崎正信さんが講演で「女子中学生と話をすれば未来がわかる」と言っていました。 岡崎さんは女子中学生のバレーボールのコーチをしていて、意志の疎通の難しさを感じつつ、それでもコミュニケーションを試みるそうです。 なぜなら、彼女らがもう少し大きくなると、彼女らの好みに合わせて、社会がつくられていくことになるから。 すなわち、未来がわかるということなんですね。 私も中学生というわけにはいきませんが、20歳の女性と話をすることで、近未来、あるいは現在がわかるかなと思っていたのでした。 …というと、もっともらしいですが、もちろん、それだけが楽しみだったわけではありません(笑) ちなみに、看護師さんにも同じぐらい若い人がいますが、看護師さんは忙しいので、ある程度まとまった話をする機会は、あまりありませんでした。 たまに仕事以外に何をしているのか聞いても、家でテレビを見るか、買い物をするぐらいという答えが返って来るだけで、どこのお店の何が美味しかったとか、どこに遊びに行ったという話も、あまりないようでした。 SNSをしている人も少なく、情報にうといようで、あまりリサーチのしがいはありませんでした。 夜勤もあって不規則だし、人手が足りないと休日でも呼び出されるそうなので、仕事以外のことをする余裕もないのでしょうか。 知識も技術も必要だし、本当に大変な仕事に見えましたが、みんな生き生きと働いていて、たぶん天職というものなんだろうなと思いました。 10月27日、抗がん剤治療開始から25日目に退院となりました。 ただ、白血球の回復は早かったのですが、細菌感染からの回復は追いついていないようで、当日まで採血がありました。 お尻のほうも、まだ少し痛い状態でした。 今回も彼女が迎えに来てくれて、まずは盛岡で昼食をとることに。 やはり何が食べたいか、いろいろ考えましたが、びっくりドンキーの第1号店「ベル」に行きました。 びっくりドンキーが盛岡発祥だったとは、岩手に来て初めて知りました。 1号店の存在は気にはなっていたけど、まだ行ったことがありませんでした。 ベルという名前は違うけど、メニューはびっくりドンキーと同じのようでした。 それにしても、こういう時に、本当の嗜好がわかるものですね。 1回目の退院の時はラーメン。 2回目はこの日記には書いていませんでしたがカレー。 3回目はハンバーグ。 我ながら見事に子どもの好きそうなメニューばかりです。 その後、恒例の内陸注目スポット視察で、水沢市のCafe&Living Uchidaに行きました。 岩手県沿岸の人は、一関、水沢、北上、花巻、盛岡など、主要な鉄道や、道路が通っているあたりの地域を「内陸」と言います。 わかりやすく言ってしまうと、そこから太平洋側へ行くほど「へき地」というイメージになります。 釜石もへき地… だから、内陸に行く機会は貴重なのです。 駅前のビルをリノベーションしており、話題のスポットでしたが、実際に見ると想像を超えるオシャレさに恐れ入りました。 その後、釜石に帰り、彼女の作ってくれた夕食を食べて、早めに寝ました。 #
by 3839ttsy
| 2018-12-23 19:25
| 白血病からの復活(闘病日記)
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一番美人の看護師Kさんのシャッターの件もそうですが、看護師さんはとにかくほめ上手です。 たとえば、私がスケッチブックに家具などのデザイン案を書いていたら、それを見て「すごいステキ!ぜひ作ってください」などと言われます。 おそらく、患者さんの気持ちが少しでもよくなるように、そのように心がけていると思うのですが、わかっていても、つい調子にのってしまいます。 ふと頭に浮かんで描いた、新しいデザインの南部鉄器の急須のスケッチを褒められたので、「もしや、本当に作ったら売れるのか?」と思って、彼女にも見せたところ、無反応でした(笑) 私だけでなく、すごいいびきの同業者の方は、インターンの看護師さんや先生が傾聴にやってくると、その人の似顔絵を描いていたようで、やはり看護師さんから褒められていました。 もちろん、そちらは本当に上手だったと思いますが、あれだけ褒められれば嬉しいに違いないでしょう。 そういう、看護師さんとの世間話というか、たわいのないやりとりは、他にもありました。 一時退院の時に、釜石で活動している劇団のメンバーから、ミニオンズのグッズをもらったので、ベッドのパイプのところに下げていました。 なぜミニオンズなのかというと、その1年前に釜石で映画のイベントがあり、盛り上げるために、映画の始まる前に、劇団のミニ公演を行いました。 その映画がミニオンズだったので、私はミニオンズ好きのコスプレイヤーの役で出演しました。 メンバーがくれたのは、それにちなんでだと思うのですが、ある若い看護師さんから思わぬことを言われました。 「宮崎さんってミニオンズに似てますよね」と。 だから枕元に飾っているのかと思ったと言うのです。 実は、それは小物入れで、中に「ガン封じ」のお守りが入っていたからなのですが、まさかそんな風に思われていたとは。 そして、これには、さらに後日談があるのですが、その時にまた書くことにします。 あまり利用しなかったのだけど、19日に一度だけ「代行」を頼みました。 代行というと、お酒を飲んだ時の運転代行を思い浮かべますが、こちらは、おそらく買い物代行の略だと思います。 病棟には看護師さん以外に、看護助手さんがいて、買い物をお願いすると、下の売店で買ってきてくれるのでした。 先月あたりまでは週1回ぐらい彼女が来てくれていたのですが、遠いこともあり、間隔が長くなってきたので、支援物資が届きにくくなっていたのでした。 はみがき、ボディソープなどの必需品に加え、なくなりかけていたインスタントコーヒーを買ってきてもらいました。 10月20日、抗がん剤治療スタートから18日目、また体温が高く、バンコマイシンという薬を点滴されました。 21日、22日は、排便の際に激痛で苦しみましたが、白血球は回復傾向で1000台になりました。 23日月曜日、自民党の圧勝が報じられ、東北は台風21号が通過。 鉄筋コンクリート造で温度管理された病棟で、しかも窓から一番遠いベッドにいると、天気もわからず、季節感もありませんが、さすがに台風の風雨は感じました。 白血球が早くも2000台になったので、明日は骨髄穿刺と、先生に言われました。 翌日、予定医通り骨髄穿刺があり、間もなく退院かと思われましたが、感染の数値が下がっていないということで、まだすぐには退院は出来ないようでした。 抗生剤などの点滴も、続いていました。 基本的に本は電子書籍で読んでいたのですが、ある時、印刷された紙の本が必要になりました。 それは、釜石で定期的に開催されているまちづくり勉強会の課題図書でした。 電子書籍になっていないようで、紙の本しかなく、Amazonで購入してみることに。 以前ポケットwifiが届いたので、本も病室に届くはずでしたが、果たしてそれが25日に届きました。 同じ日、退院日が2日後に決まりました。 3回目の治療は期間も短く、辛い副作用もあまりなかったので、これなら後1回は、無難に行けそうだなと思いました。 ところがその後、O先生から不吉なワードを聞かされました。 それは「ルンバール」。 彼女は「なんだか楽しそうな名前だね」と言いましたが、私は以前から、前のベッドの構造設計の人に、その単語を聞いていました。 前のベッドの人は、一時期、「起きると(頭を起こすと)頭痛がする」と言って、寝てばかりいました。 その原因が、ルンバールだったそうなのです。 骨髄穿刺(マルク)は受けたばかりだし、これまでも何回も受けてきましたが、ルンバールはそれより恐ろしい検査のようでした。 そのルンバールを一時退院して、再入院するその日、11月1日に行うというのです。 一時退院の喜びは、その凶報によって、たちまち半減したのでした。 #
by 3839ttsy
| 2018-12-13 14:29
| 白血病からの復活(闘病日記)
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ある日、同室に建築関係の仕事をしている人が入ってきました。 私は以前と同じ、廊下側の入り口から入ってすぐ右のベッドで、その人は私のベッドから2つ奥でした。 看護師さんとの話や、電話の会話から、沿岸のどこかで働いている現場監督さんのようでした。 病人のわりに、とても元気な感じで、ベッドの上でパソコンで仕事をしたりしていました。 なんと社長から入院中も施工図を描くように言われているということで、復興のために仕事が立て込んでいるのだろうと思いました。 なんとなく私も触発されて、その頃から、パソコンで仕事をしたり、代表をしている団体のウェブページを作ったりしはじめました。 ある時、その人が昼間、すごいいびきをかいて寝ていたので、もしこのいびきが夜にひびきわたったら、寝られないのではと心配になりました。 でも、夜にそのいびきが聞こえたことはなく、少し不思議に思っていると、消灯の直前に、どこかへ行って、朝もどってくることに気が付きました。 たぶん、消灯の時間だけ、個室に行っていたのでしょう。 そういえば、私も「いびきをかいていた」と、人から言われることがあることを思い出し、他のベッドの人に迷惑をかけていないか気になりましたが、個室に追いやられなかったところをみると、大丈夫だったのでしょう。 それにしても、今まで聞いたこともないようなすごいいびきでした。 建築関係といえば、向かいのベッドの人が、私より若い男性で、なんとなく気になっていたので、話しかけてみると、構造設計をしているということでした。 構造設計というのは、建築の中でも、基礎、柱、梁などの構造部分を計算して設計することです。 福島の会社に勤めてらっしゃったのですが、病気になり岩手に戻ってきたということでした。 私より重病というか治りにくい型の白血病のようで、お兄さんに骨髄を提供してもらって移植するということでした。 ある時期、空手家のような強靭な体(に見える)の人が、患者衣を着て廊下を歩いているのを見かけたことがあったのですが、その人がお兄さんだったようです。 この月いっぱいは私の前のベッドにいましたが、翌月は無菌室に移動したので、なかなかよくならなかったのだろうと思います。 2回目の治療からの病室は、最後までずっと同じだったのですが、病室によって看護師さんの担当が違います。 でも、たまに応援で別の病室の担当の看護師さんが来ることもあります。 10月11日、1回目の治療時の部屋の看護師さんが来て、私がシャワーに行くときなどに廊下を歩いているのを見ると「大丈夫かな?」と思ってしまうと言いました。 その頃は、歩いて自分でシャワーに行くことも出来ない状態だったことを思い出しました。 その看護師さんは、外来のK先生がたまに見に来たことも「珍しいことなんですよ」と言っていて、つまり、私がかなり重症だったと言いたいのだろうと感じました。 そう考えると、ずいぶん回復したものです。 しばらく点滴も輸血もなく、身軽な状態だったのですが、14日、抗がん剤治療スタートから12日目、輸血があり、さらに熱が37.5℃を超え、抗生剤の点滴もはじまりました。 またしばらく、点滴のハンガーをひきずって歩く生活のはじまりです。 15日、朝のバイタルなどを終えて、昼食まで特にすることのない時間帯、一番美人の看護師Kさんが、ふいに廊下から私の様子をのぞき、ベッドのそばにやってきました。 医療行為とは関係がないようで、一瞬戸惑ったのですが、どうやら一時退院中に実施したシャッター塗りイベントの現地を見てきたということを、言いに来てくれたのでした。 再入院の時に、その話をしたのだと思いますが、覚えていて、休日に隣の大船渡に行ったついでに、わざわざ見に行ってくれたということでした。 今も日誌にホッチキスで留めてあるのですが、シャッターをインスタントカメラで撮った写真をくれて、「すごくキレイな色でした」と言いました。 この後の退院の時に、1回塗りで色が薄かったため、もう一度塗ったので、その時は、決してキレイではなかったと思うのですが、そこは看護師さん特有の気遣いでしょう。 翌日の16日、看護学校の学生さんが実習にやってきました。 学生さんは何度か見学に来たことはあったのですが、今回はバイタルを取ったりして、実際に患者と接するスタイルでした。 よくわかりませんが、傾聴のようなこともカリキュラムに含まれているのか、しばらく話をしていたりします。 私のところに来たときは、バイタルを取りながら長いこと話をしているので、大丈夫なのかな?と思ったりしましたが、すごいいびきの現場監督さんとは、もっと長いこと話をしていたので、そういうことだったのだと思います。 勉強のためか、血圧計もデジタルのものでなく、昔の理科の実験室にあった器具みたいな、水銀のものを使っていました。 脈拍も手首を指で押さえて30秒数えるスタイルで、若い女性に手首を握られて、なんとなくドギマギしました。 18日、やはり今回もアレがやってきました。 お尻の痛みです。 辛い副作用は少なくなっていたのですが、これだけは、毎回ありました。 これからまた、しばらくトイレに苦しむ日々が続きます… 同じころ、特になんの問題にもならないけど、毎回起こる副作用とも言えないような現象に気が付きました。 それは二重まぶたになること。 普段私は一重まぶたなのですが、抗がん剤投与からしばらくすると、一時的に二重まぶたになるようでした。 私もですが、たぶん同じ病気の患者さんもわざわざ先生に言わないだろうし、もともと二重の人は気が付かないだろうから、これは副作用としては認識されていない現象かもしれません。 #
by 3839ttsy
| 2018-12-12 22:39
| 白血病からの復活(闘病日記)
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再入院の翌日、10月3日から3回目の抗がん剤治療がスタートしました。 この時は、慣れてきたこともあり比較的楽でした。 最初の頃こそ、緑色のドロドロした飲み薬を飲んだり、血糖値が上がってインスリン注射をされたりしましたが、それも1週間ぐらいで、治療スタート6日目には、熱もなく点滴の管が一本もつながっていない状態に。 そうなるとトイレに行くときなど、手ぶらで行けるので、とてもスッキリします。 点滴中は、ラックをガラガラと引っ張っていかないといけないので。 でも、白血球が少なくなってくるのは、それ以降で、なんらかの感染によって熱が出ると、たちまち抗生剤の点滴がはじまります。 また赤血球や、血小板が少なくなると輸血もあるので、あくまで一時的なことでした。 足が熱くて、むずむずして眠れない「むずむず足症候群」も、今回はあまりひどくなりませんでした。 食事も病院食に加えて、魚の缶詰を食べたり、スープ春雨や、小さなおうどんを食べたり、おやつに南部せんべいを食べたりしました。 朝起きた時や、食後にインスタントコーヒーを飲むようになりました。 平時はカフェイン中毒なのです。 読書もたくさんできました。 そのころ、ノーベル文学賞にイギリス在住のカズオ・イシグロさんが選ばれ、ミーハーながら、その著書も読みました。 ネットで調べたところ、人気作品が「日の名残り」と「私を離さないで」だということで、まず日の名残りを読んでみました。 いずれも、人のささやかな営みや恋、老いていくことの悲しみをテーマにした内容で、なんとなく入院している自分の気持ちに浸透してくるようでした。 特に「私を離さないで」は、ガンが大きなテーマの内容で、印象に強く残る内容でした。 本屋大賞の「鹿の王」に続き、医療に関する本を読んだせいか、次はど真ん中の「白い巨塔」を読もうと思いました。 長編なので、長い入院生活にぴったりのような気もしました。 ちなみに、それらは全てスマホで電子書籍で読んでいました。 先月末にポケットwifiが届いたので、ダウンロードも心配ありません。 副作用として今回顕著に現れたのは、味覚がおかしくなることです。 6日目の頃の日誌には、「食べものを食べても味がしない」と書いてあります。 しかし、それは数日だったようで、その後の日誌にはそういったことは書いてありません。 どこか不調を訴えると、CTスキャンを受けることになったり、検便されたり、あまりいいことがないことを学習したせいもありますが、この頃は、回診で先生に体調を聞かれても「調子いいです」と答えるのが常になりました。 とはいえ、本当に体調が悪いのに、そうも言えないので、実際にあまり悪いところはなかったということだと思います。 この月は、衆議院選挙があって、ツイッターを見ると、私の関心ごとは主にそれだったようです。 ヒマに任せて食堂にある新聞をローカルと、全国の2紙、読んでいたこともあったと思います。 少し先の話になりますが、入院している人のための期日前投票の受付があり、18日に病室まで選挙管理委員の方が来てくれて、投票も出来ました。 ただ、立会人の人が見ている状況で名前を書かないといけないので、普段の選挙よりはちょっとやりにくい感じはありましたが。 なお、本番の投票日は22日(日)でした。 これは副作用なのかどうかわからないのですが、入院患者の他の人もそうだったので、関係あるような気がするのですが、ガスがすごく出ました。 つまり、オナラです。 最初は音が出ないようにしていたのですが、他のベッドからも景気よく(?)大きな音が聞こえてくるので、私も途中から気にしないようになりました(笑) とはいえ、看護師さんが室内にいるときは、なるべくしないようにしてました。 看護師さんにはこれまで、恥ずかしいところをあますところなく見られてきましたが、それでも恥ずかしいと思う気持ちはなくならないようです。 #
by 3839ttsy
| 2018-12-11 17:52
| 白血病からの復活(闘病日記)
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9月27日、2回目の抗がん剤治療開始から26日目、おなかの調子はよくありませんでしたが、全体的な体調は悪くありませんでした。 ただ、赤血球の数がまだ少ないということで、一時退院しても、運動などはあまりしないほうがいいと、看護師主任さんから言われました。 9月28日の11時に彼女が迎えに来てくれて、2回目の退院となりました。 今回は10月2日までの4泊5日、前回よりはいろいろ出来ました。 退院当日は、盛岡駅前のフェザンで買い物したり、オガール紫波のカフェに行ったり、花巻の木材店さんを見学したりしました。 彼女は林業関係の仕事をしており、二人とも木材や木工に興味があります。 食事もけっこう自由で、同じく花巻でおいしいと評判のギョウザを買って帰り、家で食べました。 2日目の記録を見ると、春のイベントの打ち合わせをしたり、シェアオフィスの事務機の搬入に立ちあったり、事務所に行って仕事をしたりしています。 体力は、まただいぶ落ちていましたが、ゆっくり動けば大丈夫でした。 シェアオフィスも、メインの仕事場も、自宅も2階なので、上り下りで筋肉痛になりました。 2回目の治療中は、少し歩くこともあったとはいえ、他の階には行けないので、平面的な移動でしかないし、距離にしても1回につき20mぐらいまでです。 今回の退院中、一番の目玉は、商店街のシャッター塗替えイベント(過去の日記)でした。 このイベントは、私が代表をしている商店街の再生プロジェクトが行うもので、私が入院する前に計画していて、他のメンバーが引き継いで進めてくれていたものです。 商店街のシャッターを、参加者を集めDIY体験で塗り替えるという内容です。 決まっていた日にちに、偶然、退院が重なり参加することが出来ました。 3日目はその準備のために動きました。 そして、当日もペンキは塗らないまでも参加しました。 筋力が落ちていることもありますが、退院の前に看護師主任さんに言われたように、赤血球が少なくなっているので、あまり息を切らさないようにしていました。 昼食はサンマを炭火で焼いて、食べたりもしました。 やはり細菌感染が気になるので、よく焼くように気をつけつつ… 先生からは、前回より少し長い一時退院で「ゆっくりしてください」と言われていましたが、むしろ、なかなか忙しい4日間でした。 10月2日に再び盛岡まで彼女に送ってもらい、再入院。 退院時に持って帰った荷物を、再び大きなカートに入れて7階にあがります。 案内されたのは、前回と同じ病室の同じベッド。 待ってましたとばかりに、採血、バイタルサイン測定が行われ、CVポートに針を刺し、生理食塩水の点滴も始まりました。 この時の、健常者から重病患者への意識の転換は、毎回、本当にあっという間です。 これからまた、約1ヶ月間の抗がん剤治療がはじまるのでした。 #
by 3839ttsy
| 2018-12-08 10:17
| 白血病からの復活(闘病日記)
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これまで書いてこなかったですが、レントゲンを週に1回ぐらい取りました。 白血病患者は、免疫が下がっていることが多いため、他のフロアへ行けないこともあり、「ポータブル」と呼ばれる首の長い恐竜のような機械が、病室に入ってきます。 ベッドにいながらにしてレントゲンを撮ることが出来ます。 ただ寝たままではなく、ベッドを半分起こして背もたれのようにして、座った状態で行われます。 1回目の入院では、電動のベッドだったのですが、2回目になるとやや軽度の患者とみなされているので、手動で、看護師さんが足元のレバーをぐるぐる回して起こします。 お腹と胸と2枚撮る場合と、どちらかだけ撮る場合がありましたが、なんのためだったのかは不明です。 9月23日と24日の日誌には、看護師さんのメイクのことが書いてあります。 いつも目の下が赤い看護師さんがいたのですが、夜勤明けの朝には赤くなかったので、あれはメイクだったんだろうかという… まことにのん気な内容ですが、たいぶ体調が戻っていた証拠ではないかと思います。 25日の回診では、白血球が1700台に戻っているので、2日後の水曜日には退院できると言われました。 2000を超えると屋外に出ても大丈夫なので、このペースなら2日後に超えるという予測だったのだと思います。 同じ日、注文していたポケットwifiが届きました。 パソコンのメールがたまっているので、まずは受けてみましたが普通のwifiと遜色ない早さで、こんなに便利なものだったのかと思いました。 もちろん、スマホの動画なども見放題という感じです。 1ヶ月で100GBの契約だったのですが、実際に使うのは30GBぐらいで、けっこう余裕がありました。 間もなく一時退院でしたが、快適ネット生活が始まりました。 次回の入院からは、通信料を気にせずにスマホが使えるし、パソコンを使って作業なども出来そうでした。 翌日、また骨髄穿刺がありました。 2回目の治療の効果を確かめるためと思います。 1度治療が終わるたびに行われるのでしょう。 それが終わってしまえば、後は目立った(痛い)治療行為はなく、だいぶ気分が軽くなりました。 結果として、前回ほど熱が出たり、親知らずの回りが腫れたりという、辛い症状は少なく、白ストッキングをはかされることもなく、後2回もこの調子なら、それほど辛くなさそうだと思いました。 #
by 3839ttsy
| 2018-11-29 19:32
| 白血病からの復活(闘病日記)
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むずむず足は9月16日頃におさまりましたが、新たなる症状が発生しました。 それは残尿感。 その時は、点滴でおしっこが大量に出ることに加え、抗がん剤の副作用により、粘膜が弱くなってしまうことが原因かと思っていました。 あるいは、今考えると細菌感染による、一時的な膀胱炎だったのかもしれません。 夜、実際にはたまってないのですが、おしっこが漏れそうな感じがずっと続いて、寝られないという症状が数日続きました。 そのことを一番美人の看護師Kさんに伝えましたが、回診の時、先生は何も言わなかったので、どういう原因や症状だったかは推測の域を出ません。 このころ赤血球と血小板の輸血が頻繁に行われており、血液の細胞も一番少なくなっていたと思います。 9月19日、抗がん剤治療18日目、白血球の数は上昇しかけているのだけど、300ぐらいで止まっていると、先生に言われました。 また少し熱が出て、抗生剤の点滴が増えました。 お尻もまだ痛い状態でした。 9月22日には白血球が700台になりました。 そのせいか、熱が36℃台に下がりました。 こうなると、結構元気です。 この日は、地元で商店街再生の活動を一緒にしている方が、親子でお見舞いに来てくださいました。 息子さんが盛岡の高校に通っていて、会いに来たので、寄ってくださったのでした。 元気が出そうなオレンジや黄色を基調としたアレンジフラワーをお見舞いにいただきました。 ところが、看護師主任さんから、花はカビが生えたりすると細菌の温床になるので、病室のみならず受付の周辺などにも置けないと言われました。 私以外にも、このフロアには細菌感染しやすい患者さんが多いので、フロア自体に置けないということでした。 やむを得ず、持って帰っていただくことになり、心苦しく思いました。 #
by 3839ttsy
| 2018-11-28 19:17
| 白血病からの復活(闘病日記)
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昼食は1回目の入院よりバリエーションが豊富になったと以前書きましたが、13日はうどんが出ました。 普段、うどんが好きかというと、そうでもありませんが、この時は珍しくて嬉しかったです。 体重はだいぶ減っていたのですが、食事はほとんど完食で、それでも足りなくて彼女に買ってきてもらったものを追加で食べていました。 いわしやサバの缶詰、インスタントのスープ春雨、南部せんべいなど。 ある時発見した、寿がきやの「小さなおうどん」は、生めんで量が適度で、ちょうどニーズにあっており、重宝しました。 寿がきやというのは、東海地方では知らぬものはない、ラーメンなどのファーストフードの会社ですが、東北地方にはお店はないと思います。 でも小さなおうどんは、岩手のスーパーにも売っているんですね。 病院食も少なくはないし、それに加えて小さなおうどんなどを食べていて、運動はしなくて寝てばかりだったのに、体重は60㎏台でした。 普段は80㎏以上あって、ダイエットすると74㎏ぐらいにはなるのですが、それ以下には、なかなかなりませんでした。 しかし、入院中は65㎏前後で推移していました。 20代の前半はそれぐらいで、いくら食べても太りませんでした。 お腹も出ておらず、その頃の体型に戻って、ちょっと喜んでいたりもしました。 たぶんこれも抗がん剤の副作用なのでしょうが、そんなに悪いことではなかったですね。 (退院して半年もすると、すっかり80㎏台に戻ってしまいましたが…) 運動と言えば、同室の人が気になっていました。 一番奥の、窓側のベッドの人が、午前の回診が終わった時間ぐらいから、廊下をぐるぐると歩き回るのです。 病棟は東西に長く、南面と北面の窓側に病室がならび、その前に廊下、廊下と廊下の間にトイレや親族の控室、洗面所、シャワー室が並んでいます。 廊下の一方は無菌室や階段室に突き当り、もう一方はエレベーターのあるホールに続きます。 その間は回廊になっていて、その人はそこを運動のために何周もまわっていたのでした。 年齢は40才前後と見受けられましたが、眼光鋭く、前傾姿勢で歩き回り、なんというか気力が充実している感じでした。 入院患者さんでも、あんな人もいるんだなと思いました。 私も歩いたほうがいいかなとは思いましたが、なんとなく真似する気にはなれませんでした。 同じフロアの食堂には、よく行くようになりました。 そこには自販機とテレビ、新聞がありました。 テレビは見ませんでしたが、体調がいいときは新聞を読むようにしていました。 普段あまり新聞を読まないのですが、その頃はローカル紙と全国紙の2紙読んでいて、リテラシーが一時的に高まったため、ツイッターの投稿は社会問題についてが多いです(笑) 私も私なりに運動はしないものの、頭のほうを意識的にリハビリを行っていたような感じでしょうか。 自販機でジュースを買うこともあり、この頃にハマっていたのはサントリーの「すっきりしたトマト」でした。 (これについては、本ブログで投稿(過去の日記)しているのでよければご参照ください) 9月の半ばごろに、ちょっとした問題が発生しました。 スマートホンのデータ使用量が契約の5GBをオーバーし、速度制限がかかってしまいました。 普段であれば、速度制限がかかることはないのですが、時間があるのでスマホばかり見ていたからです。 なお、病棟にフリーwifiなどはありませんでした。 とりあえず1GB追加したのですが3日でなくなりました。 逆算すると、1ヶ月で10GB使うので、20GBのプランにすれば大丈夫そうでしたが、そろそろパソコンも使いたいという気持ちもありました。 パソコンのメールに重要な連絡が来ている可能性もあり、スマホのテザリングでは、ちょっと心もとない感じがしました。 ツイッターで知り合いに教えてもらったこともあり、とあるメーカーのポケットwifiを検討することにしました。 ネットで注文すると、郵送で届くということで簡単そうでしたし、月額は100GBのプランで4000円ぐらい、動画などを見るにも余裕だと思われました。 さらに、短期でも借りられて、解約も簡単そうだったので、それを使うことにしました。 問題は郵送が病院に届くかということでしたが、病院の住所と、病棟名、階数を書いたら、結果的には届きました。 これで存分にスマホが見られて、ついでにネット通販が使えることもわかったのでした。 #
by 3839ttsy
| 2018-11-27 19:13
| 白血病からの復活(闘病日記)
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9月8日、抗がん剤投与開始から7日目、先生から白血球の数値が1000台になっていると言われました。 頭が少し痛くなり、熱がまた37.6℃になり、血培と抗生剤の追加になりました。 たぶん、細菌によって、効くものが違うのだろうと思います。 白血病そのものの治療としては、点滴の抗がん剤と、飲み薬のベサノイドだけなのですが、それらによる(特に抗がん剤による)副作用に対して、たくさんの薬が使われます。 なお、ベサノイドの服用は、9月の初めで終了しました。 副作用と言えば、またお尻が痛くなり始めました。 前は謎の突起物のようなものが出来ましたが、今回はそれはなく、しかしピーク時の痛みは同じぐらいでした。 痔というのか、この症状になると、なるべく大便をしたくないと思うけど、しないわけにはいかないジレンマに陥ります。 1回目の治療の時のように、体を洗ってもらったりすることはなくなり、肛門を見られて、薬をつけてもらうこともなくなりました。 カーテンをしめて、自分で鏡を見ながら注入型の薬を使います。 いつ看護師さんが入って来るかわからないので、タイミングを見計らって、素早くするようにしていました。 前の病室の看護師さんには、だいたい肛門を見られましたが、まだこっちの病室の看護師さんには見られていないので、出来れば見られずに済ませたいところなのです。 一方、こちらの病室に移ってから、毎日定時に聞かれることがありました。 それは食事をどれぐらい食べたかと、便の状態です。 かたい、ゆるい、どろ(けっこうゆるい)、水みたい(とてもゆるい)、みたいな表現で聞かれます。 これをうら若く美しい看護師さんに答えるのは、毎日のことながら、ちょっとした試練です。 時々、便を調べるので、トイレに設置してある、ポータブルトイレのほうにしろと言われることもあります。 その場合は、大便をポータブルトイレにして(小便を紙コップで別に受け)、終わったらナースコールをして、看護師さんに回収してもらいます。 ナースコールをしたときに、一番美人の看護師Kさんあたりが来ると、しばらく落ち込みます(笑) 病室の壁には酸素吸入器をつなぐためのコンセントのようなものがあります。 隣のベッドの人が、ときどきそれを使っているようでした。 9月11日の朝、その人が呼吸が苦しくなって、看護師さんが「Oさん、Oさん」と声をかけても返事をしなくなりました。 またしても、病室はただならぬ雰囲気に包まれました。 看護師さんや先生があわただしくやってきて、Oさんはストレッチャーで別の部屋に運ばれていきました。 私が最初に入った集中治療室に運ばれたようでした。 その後、Oさんがどうなったのかはわかりませんでした。 今まで、同室の人が危険な状態になったことが2度あり、今回で3度目でした。 だいぶ回復してきて、自分が死ぬことが考えにくくなったせいか、あるいは数メートルしか離れていない、近い位置にいた人だったせいか、少し怖くなりました。 電子書籍で読み始めた本屋大賞の本は、2017年の「蜜蜂と遠雷」に続き、2016年の「羊と鋼の森」を読み終わり、この日から2015年の「鹿の王」を読み始めました。 この本は、1冊だけだったこれまでのものと違い、全4巻で読みごたえがありました。 NHKのテレビドラマで放映されていた「精霊の守り人」の作者、上橋菜穂子さんの作品です。 精霊の守り人と同じくファンタジーで、架空の世界ながら、時代的には近代以前の中世ぐらいのイメージです。 しかし、魔法などではなく、伝染病や医学をテーマにしており、異色のファンタジーという感じでした。 たとえばコケから抗生物質を採取するなど、現代の医学に通じるものがありました。 そして、私が受けている点滴も、コケから生まれたのかと思ったり。 あとがきを読むと、上橋さんの母親が肺がんで闘病していた時の経験から着想を得て、本作品を書いたということでした。 昔はファンタジーが好きで読んでいましたが、最近はノンフィクションやエッセイ、ビジネス書、フィクションなら古典的なものを好むようになったので、入院でもしないと読むことはない本だったと思います。 今の自分が読むにピッタリで、なんだか不思議な感じがしました。 #
by 3839ttsy
| 2018-11-26 15:08
| 白血病からの復活(闘病日記)
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9月4日、体温を測ると37.6℃あり、ちょっとごまかしたい気持ちもありましたが、正直に看護師さんに言うと「けつばい」を取りますと言われました。 けつばいとは何かと、今検索したところ「血液培養」の略のようです。 熱が37.5℃以上になると、血液の中の細菌を調べるために採血されるのですが、それを看護師さんは「血培」と言っていたのでした。 採血というのは不思議なもので、この時胸についていたCVポートも、以前足に刺さっていたCVカテーテルも、点滴にも使えますが、吸引すると採血も出来ます。 しかし、それらがあるにもかかわらず、針を刺されることもあるのです。 入院中にイヤというほど針を刺されたので、だいぶ慣れはしましたが、以前の日記に書いた通り、基本的には苦手です。 ところが、この時は、さらに予想を上回り、腕に点滴用の針を刺され、そこから採血されました。 なぜあんな大手術でCVポートを作ったのに、腕にまで針を刺されなければならないのかと、やや不機嫌な様子が日誌に現れています。 冷静に考えれば、胸のポートだけでは点滴が受け切れないということだと思います。 足の管では(特にトリプルルーメンの管では)、かなりの量が受けられたようですが、胸はそこまでではないんですね。 その腕のところから、今後は抗生剤を1日3回投与するということになりました。 つまり何かの細菌に感染していたということだったのだと思います。 (血培による検査との前後関係がおかしいような気がしますが、ほぼ確信を得ていたということではないかと…) 抗がん剤治療4日目にしては早いような気がしましたが、やはり白血球がなくなりはじめ、感染しやすくなっていたんですね。 この日は、以前、私が主催したイベントに来てくれたことがあり、当時住んでいた家の前におじさんがいる、Kさんがお見舞いに来てくださいました。 彼女とも仲が良く、事前に情報を聞いてくださったようで、「むずむず足」に貼るための冷えピタを差し入れにいただきました。 私はそのイベントの1度しかお会いしたことがなかったのですが、病院のすぐ前の県庁に勤めているので、いつでも欲しいものがあったら言ってくださいと、とても心強いお言葉をいただきました。 しかし、冷えピタと氷枕を併用しても、寝苦しい日々が続き、午前0時をすぎないと眠れないので、昼間に寝ることが多くなりました。 昼間はむずむず足にならないようでした。 ネット調べてみると、むずむず足症候群は、抗がん剤と関係があるのかないのかわからず、新たな持病になるのだろうかと不安でしたが、2週間ほどでおさまりました。 その他、鼻水が止まらないようになったりもしました。 特に食事をしている時と、食事の後がひどくて、ティッシュを片手に持っていないと、透明な鼻水が流れ落ちてしまいます。 こちらは退院した今でも、時々、そういうことがあるので、アレルギー性鼻炎の類と思われます。 その他、地味に辛かったのは、腕にせよ、胸にせよ点滴を受ける管のところに貼ったテープです。 私はどうも子どもの頃から、かゆがりで、今でもそうなのですが、例えば化学繊維の服を着るとかゆくなります。 テープはかゆい人用に、あまり粘着力が強くなくて、かゆくないものを使ってもらいました。 それでも時々かゆくなり、カバーされているからかけなくて、辛い思いをすることがありました。 時々、我慢できずにカバーの上からかいてしまうこともありました。 #
by 3839ttsy
| 2018-11-25 17:11
| 白血病からの復活(闘病日記)
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