建築・企画・設計・監理
(株)宮崎建築事務所 〒510-0242 鈴鹿市白子本町5-29 TEL:059-368-3330 宮崎達也 HP:http://miyazaki-archi.nobushi.jp/ mail:3839ttsy@gmail.com カテゴリ
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父の代からお付き合いさせていただいていた、鈴鹿市の株式会社ヨシザワさまからの、本社屋と工場の移転の設計依頼でした。 現在の本社工場は父が存命の時に当所で設計させていただき、その後、父が他界した後も増築などの依頼をいただいていました。 当時は私が釜石に移住して、所員だったN君が主に担当していました。 その後、N君は独立しましたが、お互いに忙しい時は手伝うという関係が続いていました。 3年前、現在の社長の就任祝賀会が鈴鹿サーキットの会場で行われるという案内をいただきました。 以前から、お世話になっていた現在の社長の御父上である元社長は、会長に就任されるということでした。 N君とともに、祝賀会に参加させていただくと、その盛大さに驚きました。 参加者は数百人規模で、地元の名だたる経営者のみならず、市長や知事までも参加していました。 私とN君は身の程をわきまえて(?)隅のほうで大人しくしていました。 実は現在の社長とは、その時、初めてお会いしました。 それから約1年後、設計の依頼をいただいたのですが、以前からのお付き合いとはいえ、規模的にお声がけをいただけないだろうと思っていました。 工場の移転の話は、以前から聞いていたのですが、社長が交代されたこともありましたので。 なんといっても工事の規模が、これまでやってきたものと違います。 私が入所したのが2000年でしたが、その後、20年ぐらいの間で、最大だったものでも5億円に満たない工事でした。 岩手ではカクタ設計さんの仕事として、8億円ほどの工事は担当しましたが、それは下請けとして一部を行ったという感じでした。 全体的には1億円以下の工事がほとんどなのです。 N君の事務所と共同で設計を行うとはいえ、今回は数十億、まさにケタが違います。 民間事業の建築設計の仕事というのは、設計事務所がけっこう大きい権限を動かすこともあり、工事業者などからの営業攻勢を受けたり金額交渉したりと、なかなか神経を使うところもあります。 それが数十億となると、経験がなく想像を超える世界でした。 また法令の面でも、規模が大きくなるほど、関係する法律や規制が多くなり、しなければいけない申請も増えます。 もちろん、規模の大きい仕事は望むところではありましたが、現段階では人数も少なく、チャレンジングであったことには間違いありませんでした。 これまで情報を出していなかったのは、設計の仕事は、確認申請が降りて、工事業者が決まるということが大きな区切りであり、それまでは非常に不安定なものだからです。 いつ頓挫しても不思議ではありません。 例えば、現在出来上がっている新国立競技場には、まぼろしの設計があったことは、建築に興味がなくても、かすかに記憶にあるかたもいらっしゃると思います。 世界的な建築家のザハ・ハディド氏と、日本で一番大きい組織設計事務所の日建設計が共同で設計を行い、予算やデザインについて批判を受けながらも設計が進み、ほとんど完成するというタイミングで、安倍元総理から「白紙撤回」の宣言がなされました。 建築の計画というものは途中の段階では、それぐらい「かよわい」ものなのです。 金額が予算をオーバーしてしまったり、社会の情勢が変わったり、施主の経済的な事情などにより、頓挫することは決して珍しいことではありません。 先月、入札が行われ工事業者が決まり、確認申請も降りたため「願掛け」を解いて、今回お知らせすることにしました。 設計も規模が大きいため大変でしたが、一息ついてからの、入札の業務や確認申請の業務が、想像を超える大変さで、一時は終わりがないように感じました。 少しだけデザインに触れると、プラスチックの梱包材など、扱っている商品のイメージから、キーワードとして「半透明」を念頭に置きました。 ブランドイメージを再現する、清潔で近代的な白と半透明の外観です。 素材としては、すりガラスや半透明のプラスチック建材などをはじめ、スチールのメッシュや、アルミの穴の開いた板(パンチングメタル)など、遠くから見ると半透明に見えるものも意図的に使っています。 作っている製品も、建材ではないのですが、内装で一部に使用するように提案しました。 細かいところでは、その他にも、さまざまなデザインを盛り込みましたが、それはまた完成した時にでも。 なお竣工は来年7月の予定です。 父の代に新築して、それから何十年も経っていませんが、事業を拡大して本社工場を移転するヨシザワ様。 ますますの発展を願って、渾身のご提案をさせていただきました。 この上もなく光栄な設計のご依頼、改めてありがとうございました。 #
by 3839ttsy
| 2021-06-14 17:46
| 建築
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今月から福島県の只見町というところの高校生に、大学受験のための講義をすることになりました。 私をよく知る人ならご存じの通り、塾の先生などではないですし、家庭教師さえやったことがありません。 また、只見町には去年までは、縁もゆかりもありませんでした。 2012年から釜石と鈴鹿の二拠点居住をしていますが、福島県の奥会津といわれる地域の只見町は、地図で見ると、そのちょうど真ん中ぐらいにあります。 最初にその地域で講師の話をいただいたときに、二拠点間の通り道なのかと思ったら、それは大きな間違いで、東北自動車道の郡山ジャンクションから車でおよそ2時間半かかります。 往復で5時間…ちょっと寄るという感じではないですね。 講師の話というのは、以前、当所で運営している釜石のコワーキングスペースco-ba kamaishi marudaiの会員であり、地域おこし企業人として、株式会社LIFULから釜石市に派遣されていたKさんの紹介でした。 同社が福島県から委託を受けている、アドバイザー派遣事業のアドバイザーとして、お声をかけていただいたのでした。 なぜ私がその候補になったのかというと、内容が空き家活用だったからです。 アドバイザーとして現地に行ったのが、昨年の12月、国内屈指の豪雪地帯である只見町に雪が降る直前の時期でした。 内容は以前、宿泊施設であり、現在は空き家になっている建物の活用方法のアドバイスだったのですが、そこに話を聞きに来ていたのが、空き家のオーナーさんと、地元の高校生のグループでした。 高校生のグループは、地域の課題を研究する授業の一環で、同物件の活用を検討していました。 その後、高校生のみなさんから、さまざまな活用提案(学習スペース、観光者と地域の人をつなげるバー、ワーケーション施設、ご当地ゆるキャラ「ブナりん」をテーマにしたブナりんカフェなど)が生まれました。 そして、その提案をプレゼンするために、再度、私のほうにオンラインでのアドバイスの依頼がありました。 私はインテリアパースを作成する提案をし、描き方を教える動画を作りました。 人に教えるには、自分が出来ないと話にならないと思い、ほとんどやったことがないですが、パソコンを使わず全て手描きの動画を作りました。 動画は他の時間に見てもらうことにして、オンラインでのアドバイスの当日は、パースの描き方の基本を教えるパートと、プレゼンの仕方を教えるパートの2部構成としました。 プレゼンについては、人に教えるほどのスキルはないのですが、スティーブ・ジョブスのプレゼン動画などを見たり、書籍を読んだりして勉強しました。 アドバイスの時間が終わり、担当の町役場の人が締めようとすると、高校生のみなさんがなにやら相談をはじめて「お願いしたいことが…」と切り出しました。 後日、私に自分たちのプレゼンを見て、アドバイスをして欲しいということでした。 町の担当者さんは、2回のアドバイスは有償だったのですが、そちらはもう予算もないと言いました。 私は無償でも喜んで受けることにしました。 自分を頼ってくれることがなんだか信じられず、とても嬉しかったので。 まことに僭越ながら、講師をさせていただく機会はこれまで何度かありましたが、それがなにかのためになったのかわかりませんでした。 今回のように明らかなリアクションがあったのは、初めてのことでした。 リハーサルを見させていただくと、すでに素晴らしい内容で、パースも上手に描けていました。 いくつかアドバイスをさせていただいたものの「すでに十分」という感じでした。 3月の本番(高校での研究発表)には行きたかったのですが、仕事の都合でどうしても行けず、町の担当者の方から、後日、動画を送っていただきました。 リハーサルでは空き家の使い方の提案に留まっていて「誰がやる」という話はなかったのですが、本番では「いつか実際に空き家を活用して、その姿をお見せします」と言っていました。 ところで、最初に空き家活用の話に行ったときに、頭にあったのが、海士町の高校魅力化のことでした。 釜石で参加している勉強会で、「未来を変えた島の学校」という本を読んで、島根県の隠岐諸島にある海士町の島前高校の取り組みを知りました。 生徒が減って、廃校寸前の高校が「島留学」で全国から生徒が集まる高校に生まれ変わるまでを書いた本でした。 その中には、空き家を使って公営塾を作り、そこに通う高校生がAO受験で早稲田大学に合格するという逸話がありました。 勉強会では本を読んだ後「実際に行ってみよう」ということになり、有志メンバーで海士町に行きました(過去の日記)。 只見町で空き家活用の相談と、高校生が使いたいと言っているという話を聞いて、まさに公営塾が出来るのではないかと思ったのでした。 実際には相談を受けた空き家を、公営塾にするところまでは話が進みませんでしたが、4月になってから思いがけない依頼がありました。 それは、私の話を聞いていた高校生の一人が、大学の建築学科を志望しているので、オンラインで指導をして欲しいという、そのお父さんからの依頼でした。 最初は大学の建築学科と言っても、入試に建築の項目はないのでは?普通の教科を教えてほしいということかな?と戸惑いましたが、とにかく引き受けることにしました。 こんなにうれしいことはめったにないので、普通の教科を教えてほしいというなら、英語、国語、数学、理科、社会、なんでも勉強して教えようとまで思いました。 調べてみると、そこまで悲壮感をただよわせる必要はありませんでした。 受験する大学のホームページを見ると、AO入試(総合型選抜)の過去問が公表されていて「なるほどこれのことか」と思いました。 建築やデザインの実技的な内容で、高校の先生に指導するのは難しいだろうと思われました。 詳しい話を聞くために、先月もう一度只見町に行き、改めて生徒さんとお父さん高校の先生と面談。 そして今月からオンラインで講義をすることになりました。 1回目の講義が11日にあって、緊張しましたがどうやら面白いと思ってもらえたようです。 今後は受験の日まで15回の講義をすることになります。 海士町に行ったとき、ガイドをしてくださった「風と土と」のAさんに、最後に聞かれました。 「この研修を受けて、あなたは何をしますか?」と。 私は「高校魅力化に取り組みます」と答えたのでした。 しかし、まさか釜石でも鈴鹿でもなく福島県の只見町で、海士町の公営塾と同じくAO入試の先生をするとは思いもしませんでした。 #
by 3839ttsy
| 2021-05-18 15:27
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引っ越した日のことは、けっこう鮮明に覚えています。 車に布団と着替えと、生活必需品を積めるだけ積んで釜石に来て、すぐにアパートの管理会社に行き、手続きをしました。 手続きが終わると、管理会社の女性が、目の前にあるアパートに案内してくれたのですが、それまで晴れていたのに、突然雨が降り出し、ほとんど土砂降りに。 窓の外を見ながら「あらあら」と言って、雨の様子を眺めている様子に、東北の人のおっとりとした人の好さを感じました。 少し待つと、雨の勢いが弱まったので、アパートのほうに行きました。 1階のエントランスに入ると、正面にポストが並んでいて、私のポストの位置を教えてもらいました。 そのポストには、まだ住んでいないのになぜか、新聞が入ってました。 「この新聞はなんですか?」と聞くと、無償で配られている新聞だということでした。 部屋に案内してもらって、ひと段落して、その新聞を開くと「復興釜石新聞」と書いてありました。 釜石の復興の経過などを伝えるために、無償で配布しているということでした。 震災後1年ぐらいしか経っておらず、インフラや被災した人の生活再建もままならないときに、新聞が発刊されていることに驚きました。 震災前にあった新聞社が被災して廃業したため、一部の社員さんが集まって、有志で発刊しているということでした。 そして、中身を読んで、ネガティブな情報が多いイメージの新聞という媒体が、前向きな話題で埋められていることに、なんだか感動しました。 また、さっき来たばかりのヨソモノである自分にも、新聞が配布されていることで…この時の気持ちは、うまく言い表せないのですが…なんとなく受け入れられたような気持ちになったのでした なお、後でわかったことですが、当初は復興の予算で運営されていたため、無償だったのでした。 記憶が定かではありませんが、震災から5年ぐらい経ったころに、その予算が切れたため、廃刊か継続かの判断をせまられたことがありました。 購読者が一定数集まりそうなら、継続するということで、アンケートが実施されました。 引っ越して以来、釜石新聞のファンである私は、当然、購読することにしました。 人口の少ない釜石市のことで、見通しはあまり明るくはなかったのですが、結果的に、県外在住の釜石出身者や、支援活動などで釜石に縁のある人なども購読することで、なんとか運営できる見通しが立ち、継続されることになりました。 支払いは、最初は集金しかなく、日中は全く家にいない私からは、集金が不可能だったらしく、あるときその旨の電話がかかってきました。 それで、直接会社に支払いに行くことになったのですが、電話で聞いた場所に行っても、なかなか会社が見つかりませんでした。 もしやここかな?と思ったところに入ると、どうやら正解で、新聞社のイメージと違う、木造2階建ての普通の一軒家で、中も住宅そのものでした。 こんなところで作っていたのかと驚きました。 その後、しばらくすると振り込みの手続きが出来るようになり、集金員さんに、ご迷惑をおかけすることがなくなりました。 独身だった私は、釜石に来て7年目に結婚しました。 釜石の復興支援員で、それ以前は新聞社に勤めていた妻は、ある時から、釜石新聞のコラムを依頼されて、書くようになりました。 また、釜石大観音仲見世リノベーションの活動や、劇団の活動などで、誌面に載せていただくことも次第に増えてきました。 そんな風にして関りが深くもなってきた釜石新聞ですが、震災後10年を区切りとして、今月末での廃刊が決まりました。 事情に詳しい妻からは、経営が大変だということや、編集長さんも高齢になってきて負担が大きいというようなことを聞いていました。 震災後10年ということで、さまざまな支援の取り組みや、国の制度に関しても区切りとなることが多いため、話題も少なくなると思われ、誌面作りが難しくなるという問題も出てくるだろうと思います。 釜石新聞の発刊はあと1回あるのですが、妻のコラムの担当が、先週の誌面で最後でした。 そこには 「釜石新聞の役割を一言でまとめると「釜石」という大きなコミュニティーに人をつなぎとめることだったのではないかと思う」 と書かれてました。 それを読んで、私が引っ越してきた日に、ポストに入っていた釜石新聞を見て感じたのは「コミュニティーに受け入れてもらえた」という安心感だったのかなと思いました。 私が勝手にそう思っているだけかもしれませんが、ヨソモノである私を受け入れてくださったことに、そして長年に渡り、釜石の復興の話題を伝え続けたことに、心から「ありがとうございます」と、「お疲れさまでした」とお伝えしたいです。 #
by 3839ttsy
| 2021-03-15 11:50
| 東日本大震災
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津波があった時の気持ちは、なかなか言葉では言い表せないし、今となっては記憶も薄れつつあります。 その日から、3週間は経っていない時期に、釜石やその他の被災地域を訪れ、破壊された町、瓦礫の山を見た時、この地域の再建のために働こうと思いました。 でも、それからすぐに動き出せたわけではなく、どうすればいいか悩んだり、迷ったりもありました。 その時は、東北に引っ越して、東北で働くということは、想像の及ばない、絵空事のようにも感じました。 半年ほどは、自分の中で考えているだけで、人に話すことはなかったと思います。 ツイッターで、つぶやいていたような気はしますが。 半年ほど迷った挙句、3月に訪問した時にお会いした遠野の人に相談して、カクタ設計さんを紹介していただきました。 結局、このご縁が奇跡だったと思うのですが、それから、釜石営業所の仕事を下請けとしてさせていただくことになりました。 当時は、住むところも不足していたのですが、アパートの手配までしていただきました。 翌年4月にそのアパートに入居し、知り合いもいない地に住んで、勝手のわからない仕事を始めることになりました。 まるで新入社員に戻ったようでした。 その時は、二拠点居住という言葉も、リモートワークという言葉も、聞いたことがありませんでした。 zoomもまだなく、スカイプを使って鈴鹿の社員と打合せをしながら、クラウドサーバーを借りて、なにもかも手探りで、釜石と鈴鹿の仕事をしました。 被災地にはいろいろな人が来ており、優秀な人、有名な人ともお会いしました。 有名建築家の人と話をしたり、ある時は、一緒にお酒を飲むという、夢のような機会もありました。 釜石は復興ディレクターとして、伊東豊雄さんが何度も足を運んでおられて、復興住宅のプロポーザルが行われました。 私も建築家への夢を抱いて、プロポーザルに参加しましたが、足元にも及びませんでした。 プロポーザルで選ばれた案は、華々しく雑誌にも紹介されましたが、その頃、開催が決定した東京オリンピックの需要が重なり、建設需要が過熱して、建築家の難しい工事は敬遠されるようになりました。 結局、2つのプロポーザル案件が白紙になり、復興住宅の建設も数年、遅れてしまう結果となりました。 その後も、復興住宅のプロポーザルに参加しましたが、一度も仕事が取れることがありませんでした。 途中から無意味なプロポーザルの無償労働に嫌気がさしました。 データを取ってみたところ、チーム全体の労働時間を1人分に集約すると、約1か月の労働が無駄になります。 完成した建物を見ても、新しいアイデアや、デザインも見受けられず、プロポーザルが必要だったとは思えませんでした。 そんなこともあり、ある段階から建築設計という業務で、復興に貢献することは難しいと感じるようになりました。 もちろん、自分に出来る限りの提案、デザインは全ての業務において行いましたが、却下されることもあります。 釜石では、鈴鹿でする仕事する時より、提案が通りにくいということを感じるようにもなりました。 そんなことが続くと、そもそも私の設計は、釜石には求められていないのではないかと思うこともありました。 仕事以外にも、復興の一助になると思いボランティアや、イベント、まちづくり活動などを行ってきました。 災害ボランティアのチーム023に所属して、瓦礫の片付けや、仮設住宅への引っ越し、仮設住宅から再建した住宅への引っ越しの手伝い。 被災した印刷会社の活字を使った、詩の作品展のスタッフ。 釜石からの手紙という活動のスタッフ。 アウトドアブームを視野に入れた、尾崎半島トレッキングコースの整備活動。 震災をテーマにした演劇を行う劇団の立ち上げと、そのメンバーとしての活動。 そして、今行っている、釜石大観音仲見世のリノベーションなど。 ほとんどシャッターを閉めてしまい、再投資もされていない商店街の再生活動です。 最初は、イベントや、DIYで環境改善するボランティアを行っていたのですが、3年前から、自社でコワーキングスペースを運営することになりました。 不動産を設計するだけの業務から、自ら不動産を経営するという業務拡大の第1歩となりました。 釜石大観音仲見世のリノベーションは、再建工事に携わってきた中で、ある時から「このままでは釜石は復興できない」と感じるようになったことがきっかけで、取り組むようになりました。 新しい建物は出来ましたが、前述したように有名建築家の設計で出来るはずだった建物が建てられなくなったり、工事費の高騰により、建築家をもってしても、大した作品が作れない(歴史に残る建築には必然的にお金がかかります)という事情から、期待されたほどのものは出来ませんでした。 また、釜石を訪れる人を案内するとき、案内出来るところが大してありません。 自然のアクティビティを体験したり、釜石の人と交流したりするというツアープランは、以前から企画されていましたが、コンセプトは素晴らしいものの、実際はキャパシティが小さく、観光産業と呼べるほどではありません。 岩手県内の主要な内陸の地域と比べると、平泉のような観光スポットもなければ、温泉もありません。 食べ物は全般的においしく、食材も豊富なのですが、安定的に案内できる飲食店は少なく、日曜日はどこも開いていないなどの問題もあります。 また、震災遺構が近隣の地域と比べて、早い段階でなくなったため、被災地を見て、震災の恐ろしさを感じてもらうということも難しいということがありました。 少子高齢化と、若い世代の都市部への流出により、人口は減っていき、税収は減る。 求人情報を見ると、給与の少なさに驚きます。 小学生の時、東北の人は東京に「出かせぎ」に行くと、社会の授業か何かで習いましたが、そういうことかと実感しました。 産業を発展させ、税収を増やさないことには、これまで建設にかかわってきた建物、かかわっていないけど、立ち上がってくるのを日々眺めていた建物が、維持できないことがわかってきました。 自分の力で出来そうなことを探す中で、思いついたのが、釜石大観音仲見世のリノベーションでした。 釜石大観音は訪れる人は最盛期の1/4と言われていますが、少なくとも釜石を象徴する第1の観光スポットであり、新しく出来た施設によって、順位が入れ替わるということもありませんでした。 仲見世は木造2階建てで30坪前後の、小規模な建物が20軒ほど並んでおり、新築と比べればかなり小さい投資で、商業施設として再生することが出来ます。 全部リノベーションしても、2億円ほどあれば十分です。 ちなみに、自社でDIYも含めて工事したコワーキングスペースは450万円ほどなので、同じ規模とすると、1億円でも可能です。 その後に、リノベーションしたカフェ(sofo cafe)も、同じぐらいの400万から500万円の間に収まっています。 参考までに、新しく作られた、魚河岸テラスの建設費は約5億円。 店舗数は飲食店が4店舗と、物販が1ヶ所、規模としても仲見世より小さいです。 しかも、それはスケルトンの予算であり、入居した飲食店が、さらに設備投資しています。 大したお金や力もない自分が、専門知識と経験を使って出来そうなこととして取り組み始めたのが、誰も省みていなかった、釜石大観音仲見世のリノベーションだったのでした。 最初は、イベントやボランティアを行い、入居者と空き店舗のオーナーをマッチングしようと考えていましたが、思うように進まず、前述したように額は少ないながら、不動産投資を自らするようになりました。 そして、地域おこし協力隊の力を借りて、カフェやゲストハウスのリノベーションも行いました。 ようやく注目が集まりかけ、潜在的な出店マインドを感じるようになった矢先、去年はコロナ禍に見舞われ、停滞しましたが、今年からも引き続き、仲見世のリノベーションに取り組み、私なりの復興の努力を続けていこうと思います。 ある人に聞いたことですが、三陸沿岸の地域には「津波の後には、人がやってくる」という言い伝えがあるそうです。 昔から、津波は大きな災厄だけど、外から支援の人がやってくることが、明るい要素としてとらえられていたことが感じられます。 10年を迎えて、辛い経験をした被災地のみなさんが、明るい未来を享受できるように、少しでも力になりたいと改めて思います。 #
by 3839ttsy
| 2021-03-11 17:55
| 東日本大震災
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これは、そのビジョンを掲げ始めたときに、依頼された住宅設計についてのお話です。 クライアントは、もともと当時所長であった父の知り合いで、社屋と息子さんの住居の兼用住宅を設計させていただいたことのある、Iさん。 息子さんのIjrさんのほうは、私と知り合いだったので、社屋兼用住宅は、私が設計担当することになりました。 IさんとIjrさん、そしてIjrさんの奥さん、それぞれに主張が強いタイプで、設計の打合せでは、やや険悪な雰囲気になることもありました。 工事中には、Iさんが外壁の張り方が気に入らないと言って、工事業者さんに貼り直しをさせたこともありました。 でも、そうやってこだわって作られた建物は、自分でいうのもなんですが、とても素敵なものになりました。 Iさんは、その社屋の近くの木造住宅に住んでいたのですが、5年後に東日本大震災がおこって、その家が津波ハザードマップの浸水区域に入っていたため、生家のあった内陸部の地区に家を建てて住むことにしました。 そして、社屋のほうの使い心地がよいということで、また私に設計を依頼してくださいました。 その前の年に、父は急病で他界して、以前は仕事の大半は父が取ってきていたため、仕事が少なくなっているところだったので、大変ありがたいことでした。 Iさんと奥様の要望と、それまでに蓄積された自分のノウハウを盛り込んで、そして何よりも「幸せのデザイン」を心がけて、設計を行いました。 これは力を入れすぎて設計するとありがちなことですが、設計図が完成し、見積もりを取ると予算をオーバーしてしまいました。 すると、普通はそんなことはあり得ないのですが、施工業者は私の書いた図面を、安くなるように描き直して、見積もりを持ってきました。 私は腹が立ちましたが、予算オーバーの設計をしてしまっているので、何も言えませんでした。 すると、Iさんは「宮崎さんの描いてくれた図面で建てたいんです」と言ってくださり、その図面を却下しました。 なんともありがたく、設計者冥利に尽きるお言葉でした。 その後、予算を合わせるために、気に入っていただいている部分は残しつつ、設計の見直しを行いました。 2回目の見積もりで、ようやく折り合いがつき、工事が決まりました。 Iさんは厳しいところや、難しいところもある人で、工事中は、施工業者との折り合いをつけたり、設計意図から外れる変更指示があって「このほうがいいのです」と説得したりする場面もありました。 現場に足を運ぶ回数は、平均よりも多かったかもしれません。 それでも、なんとか大きな問題もなく、新しい家が完成。 Iさんも奥さんも、とてもお喜びでした。 1年後、異常がないか点検に伺ったときも、仕事中だったIさんは、わざわざ駆けつけてくださって「すごくいい家で、よろこんでいます。ありがとう」とおっしゃいました。 点検の結果は、問題はありませんでした。 周りの庭は、ご夫婦で手入れをされていて、なんだか夢のような風景になっていました。 その後、私は岩手県で東日本大震災の復旧工事などの仕事で、岩手にいることが多くなりました。 完成から約7年後の今年、Iさんから年賀状が届きました。 毎年いただいてはいたのですが、今年は直筆でコメントがありました。 それには「すごくいい家で気に入っております。ぜひまた遊びに来てください」と書いてあり、わざわざ携帯電話番号まで書いてありました。 それで慌てて電話をしたのですが、来週から不在にするので、また連絡しますと言われ、電話を切りました。 Iさんから連絡が来ることもなく、しばらく経ったある時、母から電話があり、泣きながら「Iさんが亡くなった」と告げました。 父とIさんは、夫婦ともどもお付き合いしていたので、母もIさんのことをよく知っていました。 すぐに年賀状のことを思い出し、あの時、お伺いできなかったことを悔やみました。 私はその時、岩手のほうに行っており、葬儀には参列できませんでした。 数週間後、岩手から鈴鹿に戻って、Iさんのお家を訪ねると、奥さんが出ていらっしゃいました。 ご位牌にお参りするために、お邪魔させていただくと、当時はなかった仏壇が、そのために作ってあったスペースにおさまっていました。 若々しくお元気な時の写真が飾られていました。 その後、リビングのほうで、奥様とお話させていただきました。 家はまだまだ新しく、自分でいうのもなんですが、ゆったりとして居心地のいい空間でした。 奥様は、Iさんが私に会いたがっていて、ソファに座りながら「この家に住めて本当に幸せで、何も言うことはない」とおっしゃっていたという話をしてくださいました。 私は不義理に後悔しつつも、設計者として、この上なくありがたい言葉に、胸が熱くなりました。 生前にお会いできなかったことは、本当に残念でした。 奥様に、年賀状をいただいて、私が電話した話をすると、不在にするというのは、入院のことだったようです。 それから、半年ほどの間に亡くなってしまわれたのでした。 新築時ではなく、築後7年経っても、居心地がいいということは、本当によいものが出来た証拠だと思います。 当社では、ビジョンである幸せのデザインをテーマに、少なくとも30年は幸せに暮らせる家を目指しています。 情熱をもって作られた建物は、時間が経っても、時折ふと、しみじみといい家だと感じるものだと思います。 なぜなら、私が住んでいる(二拠点のうちの一つとして)、父が作った家もそうだからです。 Iさんには、もっと長く、あのお家で暮らしていただきたかったですね。 芸術・デザイン部門に応募します!
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by 3839ttsy
| 2020-12-26 18:29
| 建築
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