建築・企画・設計・監理
(株)宮崎建築事務所 〒510-0242 鈴鹿市白子本町5-29 TEL:059-368-3330 宮崎達也 HP:http://miyazaki-archi.nobushi.jp/ mail:3839ttsy@gmail.com カテゴリ
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入院中飲んでいた、ビオフェルミンという胃腸の薬と、ダイフェンという感染症予防の薬は、退院しても、しばらく飲んでいました。 頭髪は少しは残っていましたが、電気カミソリで剃れるほどしかなく、いわゆるスキンヘッドでした。 タイミングの悪いことに、この頃、運転免許書の更新がありました。 年明けまで期限があったので、もう少し待とうかという考えもあったのですが、その時は、この頭のままで一生暮らしていくのかもしれないと思い、さっさと更新してしまうことにしました。 身分証明書の提示を求められると、頭髪もまゆげもない状態の写真で、出すのがちょっと恥ずかしく、今はちょっと後悔しています。 2ヶ月ほどすると頭髪も眉毛も、全くの元通りになりました。 退院してすぐ、入院前に設計していた建物の監理業務をすることになりました。 入院中は他の人に代わりにやってもらっていたのですが、その人が忙しいこともあり引き継ぐことになりました。 翌日には現場に行きましたが、筋力が衰えているのと、血液も完全に回復していないせいか、フラフラして足元がおぼつかず、足場には慎重に昇りました。 退院してすぐ、一つの試練がありました。 それはタイヤ交換。 2階のベランダにおいてあるスタッドレスタイヤを4本おろして、今はいているタイヤを4本2階に持っていかなくてはなりませんでした。 足の力もありませんでしたが、握力や腕の力もなくなっていて、軽自動車のタイヤも運べなくなっていたのです。 もう12月なので、いつ雪が積もってもおかしくはなく、一刻も早く交換する必要がありました。 退院の2日後の日曜日、彼女が休みで手伝ってくれるというので、やってみることにしました。 彼女にタイヤを下すのと、運び上げるのをやってもらって、交換作業は自分で行いました。 普通は男が重いものを運ぶものだと思いますが、その時は、女性よりも力がなかったということですね。 それでも結構疲れましたが、なんとか試練をクリアできました。 退院しても、検査のために通院しなければなりませんでした。 5年間は通院して検査が必要で、5年間再発がなければ「完治」ということになります。 まずは1ヶ月ごとに通院して、1年ぐらい経って問題がなさそうなら、3ケ月に1度になるということでした。 入院時に骨髄穿刺が出来なかったこともあり、最初の検査はすぐにありました。 釜石から盛岡まで通院するのは大変ですが、一番近いところでは大船渡の病院でも検査が受けられるということでした。 週に1回ずつ、2人の岩手医大の先生が、そちらに行っているということで、先生がいる日に行けばいいようです。 でも勝手知ったる岩手医大のほうが安心なのと、退院して先生や看護師さんに会えなくなる寂しさもあり、最初の検査は盛岡まで行くことにしました。 というわけで、退院から6日目の12月14日、車で2時間かけて、再び岩手医大に行きました。 考えてみれば当たり前ですが、外来と入院のフロアは違うので、お世話になった看護師さんには会えませんでした。 しかし診察のほうは、本来は外来担当ではないと思うのですが、O先生が診てくださいました。 血液検査を別のフロアに受けに行った後、骨髄穿刺が行われました。 骨髄穿刺も外来のベッドで、同じことだと思うのですが、入院の時より簡易な感じがしました。 結果が出るまで数日かかるので、その日はわかりませんでした。 血液検査のほうは少し時間がかかるのですが、その日のうちに結果が出ます。 血液検査より骨髄穿刺のほうが、より精密な検査という位置づけになるでしょうか。 お昼をはさむので、昼食に出かけてもいいと言われました。 最初の入院の時に隣りのベッドにいた人は、看護師さんとの会話や、電話との会話を聞くともなく聞いていると、食べ物の話ばかりでした。 それに影響されて、退院の日はじゃじゃ麺を食べに行ったのですが、もう一つ気になる情報がありました。 病院の裏のとんかつ屋さんが、美味しいという。 そこに行ってみることにしました。 盛岡は雪が少し前に降ったようで、道路が凍っていたので、すべらないように気を付けながら、病院の裏に行くと、どうやらそれらしいとんかつ屋さんがありました。 老舗という感じのしつらえで、確かにおいしいとんかつでした。 県庁なども近く、その周辺で働いているのか、お客さんはスーツの人が多いようでした。 私は寒いので厚着をしていましたが、スーツの人たちはコートを着ていなくて、寒くないのかなと思いました。 血液検査の結果待ちは長く、昼食から戻っても、しばらく待ちました。 1時間ぐらい待ったでしょうか、ようやく呼び出しがあり、O先生から検査結果を聞きました。 結果は問題なく、経過は良好といった感じの口ぶりでした。 O先生とは入院病棟でしか話したことがなかったし、私は私服だったのでなんだか変な感じでした。 「次回からの診察はどうしますか?」と聞かれ、今回は盛岡まで来ましたが、遠いし、駐車場がいっぱいで停められないこともあるし、病院自体も混んでいるので、なかなか大変だと思い、次回からは大船渡病院に行くことにしました。 約1ヶ月先の担当の先生がいる日ということで、来年の1月10日になりました。 O先生は少し親しみをこめた様子で、病院ではもう会うこともなさそうですね、というようなことを言いました。 検査で会うことはないという意味だったかもしれませんが、私は再発のおそれは少ないという意味に聞こえました。 ひとしきり説明が終わると、O先生は「ところで…」と、今までは絶対言いそうもなかったことを切りだしました。 今夜忘年会があって、プロジェクターを使ってなにやら出し物をするので、写真を撮らせてほしいというのです。 以前、ある看護師さんに「O先生がミニオンズに似ていると看護師の間で話題になっているけど、宮崎さんのほうが似てますね」と言われたことがありました。 私のベッドに、友人からもらったミニオンのぬいぐるみのような小物入れがぶら下げてあったので、そういう話題になったのですが、その話題が、O先生にも伝わっていたようです。 入院患者とはとてもそんな会話をする雰囲気ではなかったのか、O先生はそんなことを一言も言いませんでしたが、退院したから気安くなったのでしょうか。 詳しいことはわかりませんでしたが、私の写真を使って、なにか出し物をするということだったのでした。 私もそういうちょっとしたワルノリは嫌いではないので、快くOKしました。 写真撮影も終了し、それでは大変お世話になりましたと言って、診察室を出て、なんとなくさっきの出来事を思ってニヤニヤしながら病院を出ました。 また凍って滑る道路を歩いて、駐車場に向かう途中「はっ!」と気づきました。 診察料も払っていないし、薬をもらっていない!と。 普通、診察が終わると、窓口で支払いをして、薬の処方箋をもらうものですが、うっかりして、そのまま出てきてしまったのでした。 慌てて戻って、看護師さんに言うと、診察券を返され1階で支払いをしてくださいと言われました。 薬のほうはどうも、O先生も忘れていたのではないかと思ったりもするのですが、ジェネリックなら安いですが、どうですか?と聞かれ、ジェネリックにすることにしました。 1階での支払いは、簡単ではありませんでした。 かなり待っている人がいるようで、銀行のような整理券を取って、しばらく待つことになりました。 支払いを終えて、薬局に向かうころには、外は暗くなっていました。 薬局でもまた少し待たされ、結局まる1日かかりました。 入院中は薬は持ってきてもらえるし、診察も検査もベッドまで来てもらえるか、自分で処置室や、他の科に行くとしても待つことはありませんでした。 外来患者になると、これほど大変で時間がかかるものかと思いました。 薬は次回の検査までの分なので、かなりの量でした。 #
by 3839ttsy
| 2019-01-26 23:17
| 白血病からの復活(闘病日記)
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翌日、退院が決まりました。 2日後の12月8日金曜日。 この病院はいつも急ですが、たぶん私がいなくなれば、すぐに誰かがこのベッドに入るのでしょう。 いざ退院となると、むしろもう少しいたいような気もしてきます。 しかし、病院で何も出来ないでいる間に、世の中の流れからどんどん遅れていき、今この瞬間も家賃や電話代、会社のさまざまな経費など、お金が飛ぶようになくなっていきます。 零細企業は自分が止まったら終わりです。 早く病院を出て、お金を稼がないといけません。 退院は喜ぶべきことだと、自分に言い聞かせたりしました。 ちなみに、この頃になると「食べたい地獄」も、それほど苦ではなくなっていたような気もします。 私が苦手としている、結構な頻度で出てくる、マスのような魚から解放されるのは嬉しいことでしたが… 退院の荷物を減らすために、お見舞いなどでもらった、お菓子なども消費することにしました。 消費するというのは、つまり食べるということです。 洗濯をするために購入していた1000円のプリペイドカードが、半分以上余りそうだったので、向かいのベッドのおじいさんにあげることにしました。 すると「退院なんですね。もう治ったんですか?」と言われました。 この時、同じ部屋にいても退院する人と残る人に、場合によっては、天と地ほどの差があることに、初めて気が付きました。 おじいさんは、自分は「宣告された」と言いました。 私は何も言えませんでした。 その後、奥さんらしき人が来て、カーテンの中で何かしている音が聞こえていました。 泣いている声も聞こえたような気がします。 しばらくして、奥さんが私の所へ来て、プリペイドカードのお礼にと、小さい袋の柿の種をくれました。 「退院されるそうですね。うらやましいです」と言われ、また私は何も言えませんでした。 奥さんがいなくなると、おじいさんはパソコンで一心に何か作業をしていました。 小さいテーブルの上には、自分で作ったという、素敵なライトスタンドが置いてありました。 退院前日、する予定だった骨髄穿刺は、血液検査の結果、まだ十分に回復していないということで、しないことになりました。 退院後に一度、来院して、その時に行うということでした。 治療開始から36日目ですが、今までになく回復が遅いようです。 一番美人の看護師Kさんに夜、「今までお世話になりました」と言うと、「いえ私は何もしてないです」といって、心なしか後ずさりしたように見えました。 確かに、1回目の治療時と比べれば、Kさんにお世話になった2~4回目の治療時は、それほど手がかからなかったと思いますが… 退院当日の朝早く、点滴用のCVポートに刺さっていた管を、1回目の治療時に担当だった、若くてかわいい看護師Aさんの同期で、年上のほうのFさん(過去の日記参照)が抜いてくれました。 いつもクールで、少なくとも私とはほとんど会話をしなかったFさんが、その時、思わぬことを言いました。 同期のAさんから「見送り出来なくてごめんなさい」という伝言をあずかったと。 Aさんとは、廊下で時々顔を合わせるぐらいになっていましたが、会えば声をかけてくれました。 この日は休みだったので、見送りできないということだったのでした。 それほど打ち解けていないFさん相手の話しにくさもあって、私は「そうですか」としか言えませんでした。 今でも何か伝言を返さないといけなかったような気がしています。 入院中に書いていた日誌は、この日で終わります。 お昼ごろ、彼女が迎えに来てくれて、荷物を運び出し、4ヶ月半にわたる入院生活が終わりました。 いつものように、お世話になった看護師さんたちが、エレベーターに乗るところまで見送りしてくれました。 毎回、退院の時は、事前に何が食べたいか考えておくのですが、最後は「これしかない!」と思っていた、じゃじゃ麺にしました。 1回目の入院の時に、隣のベッドにいた人が「退院の時は、じゃじゃ麺を食べて帰る」と言っていたのを、なんとなく覚えていたのでした。 #
by 3839ttsy
| 2019-01-23 17:21
| 白血病からの復活(闘病日記)
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やはりこの日は、体調が悪かったのか午後から熱が上がり、38℃台になりました。 また抗生剤の点滴が追加になりました。 以前、「むずむず足」対策のために、お見舞いでもらった冷えピタがたくさん残っていたので、本来の目的で使ってみました。 翌日も、まだ白血球の数値は250でした。 3回目の治療時には、すでに退院していた26日目です。 病室の温度は、一定に保たれていますが、夜になると寒さを感じるようになり、布団が一枚では足りないと感じることもありました。 ここで建築士としてのちょっとしたウンチクですが、気温が同じでも湿度や、壁からの輻射熱によって、体感温度が変わります。 冬は当然湿度が低くなり、また特に窓などが冷えているので、輻射熱の関係で、体感温度が下がっていたのだと思われます。 病室はその辺りも管理してもらえるとありがたいですが、なにしろ建物が古いこともあり、やむを得ないとも思います。 ちなみに岩手医大病院は、増築を繰り返したような複雑な作りになっていて、建物によっては文化遺産とも言えるほど古いものもあります。 古い建物から新しい建物へは、道路の上を通る渡り廊下でつながっていたりして、かなり慣れないと迷ってしまいます。 特に歯の関係の病棟へは、私のいる病棟のフロアから一度エレベーターで1階に下りて、別の病棟へ行ってエレベーターで上にあがり、渡り廊下を渡って、またエレベーターで降りるというアクセスで、何度も看護助手さんに車椅子を押して連れて行ってもらったのですが、なかなか覚えられませんでした。 その複雑さのためか、新しい建物が、お隣の矢巾町に作られていて、数年後には移転するということでした。 私の入院していた病棟も、文化遺産とまではいきませんが、築50年は越えていそうで、それを聞いて出来れば新しい病棟に入院したかったと思いました。 11月29日、治療開始から28日目、ようやく少しだけ数値が上がり、450ぐらいになりました。 熱も下がりました。 退院が視野に入ってきたためか、先生から母と妹に来てもらうようにと言われました。 翌日、比較的体調がよく、読書も進みました。 まちづくり勉強会の課題図書を読み終わり、なんとなくツイッターばかりしていました。 この日は家族待合室に人がいて、夜になると男性が号泣している声が聞こえてきました。 ずいぶん長いこと声をあげて泣いており「泣いていないで、立たないと」と自分に言い聞かせる声も聞こえました。 勝手に「奥さんが亡くなったのかな」と想像し、自分も同じ立場になったら、あんなに泣くだろうかと思いました。 12月に入ると、少しずつですが確実に数値が上がりはじめました。 母は来られず、12月5日に妹だけが来ることになりました。 11月中ツイッターばかりしていたと反省し、自粛することにしました。 本を読んで、レポートを書いたり、シェアオフィスの改修案を見直したりし、テレビなども見たりしました。 テレビや冷蔵庫は1枚1000円のプリペイドカードを購入すると使うことが出来ます。 私はテレビも冷蔵庫もほとんど使わなかったのですが、プリペイドカードは洗濯にも必要なので、購入する必要がありました。 しかし、洗濯には、100(円)以下ポイントが使えないので、残ってしまうのです。 ポイントが残ったカードがたまってきたので、それを使ってしまおうとテレビを見ることにしたのでした。 家族と先生の話を聞くことになった5日より1日早く、妹が来ました。 この日は、白血球がいよいよ1000を越え、退院が近づいてきていました。 5日にO先生からICがあり、私と妹と彼女で聞きました。 ICはインフォームド・コンセントの略です。 看護師さんから「今日はICがあるんですね」と言われ、始めは意味が分かりませんでした。 彼女が知っていたようで、教えてくれました。 その言葉は聞いたことがありましたが、それがこのこと(先生からの説明)であるということをこの時、初めて知りました。 治療の結果はよく、寛解状態が保たれているということでした。 ただ、以前にも言われた通り、完治と呼ぶには5年の経過が必要であり、その間に再発の可能性があるということでした。 再発の可能性は25%程度だと言われました。 高くはないが、当の本人からすれば、低いとも言えない数値だと思いました。 以前のICで、民間療法で直せないのかなどと言っていた母が、またヘンなことを言ったらしく、妹が健康食品のようなものを持ってきていました。 母にどうしてもこれだけは聞いて来いと言われたらしく、妹はO先生の説明がひとしきり説明が終わった後、意を決したように「退院してから、これを食べても大丈夫ですか?」と聞きました。 O先生は苦笑しながら、「大丈夫だと思います」と答えていました。 大手食品メーカーのサプリメントなので、確かに問題はなさそうでしたが、白血病と何の関係があるのかは不明でした。 #
by 3839ttsy
| 2019-01-18 22:23
| 白血病からの復活(闘病日記)
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4回目の治療期間は、とにかく一番、いろいろやっていました。 シェアオフィスの図面を描きなおし、同じ建物の中で、テナントに入る検討をしてもらっていた、飲食店事業者の方に、レイアウトの提案をして、メールでやりとりしたりしていました。 それがひと段落すると、キャットタワーのデザインを考え始め、図面も完成。 一方で、釜石で開催されている勉強会の課題図書を読み、レポートを書いて、ベッドからユーストリームで参加。 また、この話を詳しく説明するのは複雑なので端折りますが、ウェブである募集記事をつくるため、ウェブデザイナーさんからのヒアリングを、食堂へ行ってスカイプで受けたりもしました。 読む本も、比較的ライトに読める小説などから、ビジネス書にシフトしていき、英語のヒアリングを鍛えようとYouTubeでBBCニュースを見たりしていました。 来月の社会復帰に向けて、焦りのようなものがあったのかもしれません。 治療開始から16日目、白血球が170でした。 底をうった感じで、これから回復傾向になるはずでした。 ところが、20日目になっても200台で、赤血球、血小板も少なく、ひんぱんに輸血を受けていました。 振り返ってみると、治療に専念しなかったことがいけなかったのかもしれないと思いますが、ともかくそういう状態でした。 話は前後しますが、治療開始19日目の11月20日、頭髪も体毛もほとんどなくなっていました。 頭髪は、8月に病棟で出張床屋さんにバリカンで刈ってもらって以来、ほとんど伸びませんでした。 ほとんどないながら、ちょっと残っている感じがカッコ悪いので、いっそのことスキンヘッドのほうがいいのではないかと思い、電気カミソリで剃ってみました。 普通の頭髪の状態なら、電気カミソリではとても太刀打ちできませんが、少ないのでうまく(?)スキンヘッドにすることが出来ました。 とてもスッキリして、この後の人生は、このままスキンヘッドでいこうかと思ったりしました。 抜けた短い髪が枕やシーツにつくので、ガムテープでペタペタして取っていたのですが、その作業もなくなりました。 体毛はすでにすっかりなくなっていました。 シャワーを浴びるときは、30代から常に出ていたお腹が、20代の頃のようにスッキリして体毛もなく、自分の体を見ると若返ったような気がして、むしろちょっと嬉しい気持ちになったりしました。 頭髪や体毛がなくなるのは、なんとなく予想していましたが、気が付くと、鼻毛やまつげまでなくなっていたのには驚きました。 毛はなくなる一方で、爪はすごく早く伸びて、週に2回ぐらい切っていたように思います。 3回目の治療時には21日目には、白血球が2000を超えて退院の計画をしはじめていたのですが、今回は22日目になっても、まだ220でした。 抗がん剤の副作用として肌が乾燥するのですが、冬だからか、これまでより乾燥の度合いが強く、ヒルドイドという塗り薬を多用しました。 この頃、少しニュースになっていたのですが、このヒルドイドが女性の肌にいいということで、治療ではなく、美容のために病院で処方を希望する人が多く、問題になっていると知りました。 ヒルドイドは、それを知るずっと前に処方されたものだったのですが、自分の中でありがたみが増して、積極的に使うようになりました。 11月25日、治療開始から24日目、雪が積もりました。 7月の下旬に入院して、夏の間中、病院で過ごしました。 それがついに冬になってしまいました。 こんなに長いこと仕事をしなかったのは、就職して以来初めてのことでしたが、しなければしないで、月日はどんどん過ぎていくものだと思いました。 治ってきたら、ヒマでしょうがないのではないかと思ったりもしましたが、そんなことはありませんでした。 この日の夜、夢を見ました。 実家で寝ていると、真夜中、裏のほうから「おーい、おーい」と父の声がします。 実家は西側が道路で、玄関などがあり、東側は裏庭になっていて、寝室などが並んでいます。 この庭のほうの、和室の掃出し窓(出入りができる床まである窓)のあたりで、声がするのです。 亡くなった父は、母を呼ぶ時などに、よくこのように「おーい、おーい」と言っていました。 その掃出し窓を開けてくれと言っているのだと思いましたが、私は父だとは思いつつ、なんとなく怖ろしい気持ちがして開けられず、隣りの部屋のベッドにもぐりこんだまま、どうしようか考えていました。 そんな場面で、目が覚めました。 悪夢を見ていて「はっ!」と目が覚めた時のような、悪寒がしました。 後からあれは、もしかすると父ではなくて、お迎えのようなものだったのではないかと思いました。 というのも、ある時、ツイッターで発見したのですが、看護師のマンガをネットで投稿している人がいました。 その人は、実際に看護師さんで、自分が体験した怪奇現象を、短編のマンガにしているのでした。 その中に、黒い服を着た人が患者さんのところに現れて、連れて行ってしまったり、危うく連れて行かれるところを、看護師さんや家族に止められ、一命を取りとめたという話がいくつかありました。 話の真偽はともかくとして、なんとなくそれらの話に似ていると思いました。 翌日も白血球は200台の前半で変化がありませんでした。 #
by 3839ttsy
| 2019-01-10 21:03
| 白血病からの復活(闘病日記)
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時々登場する一番美人の看護師Kさんについてですが、一番美人であるかどうかは、もちろん私の主観に基づいています。 現に彼女は、別の看護師さんが「かなりの美人」だと、自信を持って言っていました。 しかし、客観的に判断できる事実を、この頃、発見しました。 インスタントコーヒーにお湯を淹れたい時などは、受付の前に置いてあるポットを利用します。 その受付の辺りに、看護師募集のポスターが貼ってあるのですが、ある時、真ん中に一番大きく写っている看護師さんが「Kさんではないか?」と思いました。 よく見ると、周りに写っている看護師さんも何人か、見たことがある人でした。 髪形が違うし、普段マスクをしているので確信が持てず、本人に聞いてみたところ正解でした。 なぜKさんが写っているのかというと、新人の時に声をかけられたからということでした。 配属が決まっていない段階で、広報担当の人が目を付けたということのようです。 そう考えると、何人ぐらいいるかわかりませんが、同期の中で一番に選ばれたということですね。 以下は推測ですが、周りに小さめに写っている人がこのフロアの看護師さんなのは、Kさんを撮りに来たときに、近くにいた人を撮ったということでしょう。 ちなみに、彼女が美人だと言っていた看護師さんも、ポスターに写っていました。 我が病室がゾーンCに指定された翌日、ビニールエプロンはつけているものの、看護師さんは「めんき」の鬼である私に、いつも通り優しく接してくれました。 私の病室の担当の1人に、前の病室で親しくなった、若くてかわいい看護師Aさんの同期の、Mさんがいました。 そのMさんが、私の下の名前が、お兄さんと同じなので親しみを感じると言われました。 ちなみにAさんの同期は、私の病室の担当に2人いて、もう一人はFさんでした。 MさんはAさんの1つ下、Fさんは5才ぐらい年上です。 でもその後、シャワーは最後に入るようにと言われました。 私が入った後は、消毒をするということでした。 やはり「めんき」の鬼なのだと、たちまち現実をつきつけられたような気がしましたが、この後すぐ、なぜかゾーンCは解除されました。 理由はよくわかりませんが、なにかの間違いだったのかもしれません。 しかし、バンコマイシンの服用は続けるということでした。 腹痛はなくなったので、やはりバンコマイシンが効いたのかもしれません。 4回目の入院ともなると、私が慣れてきたことと、彼女が忙しいのもあって、支援物資があまり届かなくなりました。 食欲はけっこうあるので、毎食にプラスアルファで食べるスープ春雨や、小さなおうどんなどのカップ商品や、缶詰、間食として食べる、南部せんべいなどのお菓子を買ってきてもらっていたのですが、それらもすぐに底をついてしまいます。 そこでアマゾンのネット通販を利用することにしました。 すでに、病室にポケットwifiや、本が届くことは証明済みでした。 11月15日、注文していた、スープ春雨と南部せんべいが届き、これで食糧難に悩まされる恐れはなくなりました。 なくなれば、また注文することが出来ます。 病院食はそれなりにバリエーションもあり、それほど不満はなかったのですが、ひとつだけ苦手なおかずがありました。 サケより色が薄く、マスではないかと思われる、赤い身の魚の切り身なのですが、どうもにおいがうけつけない感じでした。 焼いたり、あんかけ風にしたりバリエーションはあったのですが、原料は同じで、どちらもダメでした。 入院中、食事の時間が唯一の楽しみのようなところもあり、この魚がでるとがっかりしました。 とはいえ、残すことはせず、持参したしょうゆをかけたりして、なんとか食べました。 食事をどれだけ食べたか、毎回看護師さんに聞かれるのですが「全部」でないことは、2回目の入院以来、ありませんでした。 #
by 3839ttsy
| 2019-01-09 20:31
| 白血病からの復活(闘病日記)
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翌日、また便の検査がありました。 自分で採取するタイプと、どういう違いがあるのかわからないのですが、今回はポータブルトイレに排便して、そのまま看護師さんに渡すタイプでした。 ポータブルトイレは、トイレ内の車椅子で使える広いブースのほうにセッティングしてあります。 私が行くまではずっと置いてあるということになりますが、私がいつもよおすかわからないのに、そのシステムでうまく回っているようです。 用が済むと、便器の横にある呼び出しボタンを押し、看護師さんが来るのをしばし待ちます。 看護師さんが来たら「便が出ました」と伝え、ミッション終了。 問題は誰がやって来るかです。 トイレは担当の病室とは関係ないので、確率は低いはずですが、よりによって一番美人の看護師Kさんが来てしまいました。 誰に見られるのも嫌ではあるのですが、美しい人に醜いものを見せるのは、より気が引けます。 なんとなく、ややうなだれて、ベッドに戻ることになりました。 そうでなくても、この日はなんだかフラフラすると思っていたら、ヘモグロビンの輸血がありました。 毎回、治療開始から10日過ぎるあたりから輸血が始まるので、これはいつも通りといえばいつも通りでした。 いつもはなかったのが、このところ毎日続く腹痛ですが、思わぬ事態に発展します。 11月13日、同じ部屋に新しい患者さんが入ってきました。 先生との会話が聞こえてきて、その患者さんは「風邪をひいたけどなおりかけている」と言っていました。 これは医学的根拠などがあるわけではなく、経験則にすぎないのですが、風邪は治りかけた時こそ、うつりやすいと私は考えています。 すでにかなり少なくなっていて、これからまだ白血球がどんどん減っていくという時期に、寝てる時も含めて、1日中同じ部屋にいる人がそんな状態だと、風邪がうつり、たちまち肺炎になり、下手をすると死んでしまうかもしれないという恐怖を感じました。 私の父も、がんにかかりましたが、入院中に肺炎にかかって命を落としています。 3回無事に済んで、4回目に死んでしまうなんて、いかにもありそうな皮肉な結果です。 (私の予備校時代の友人は、まさにそうだったらしいですが、この時は知りませんでした) その不安を、回診の時にS先生に伝えると、小声で「あれは風邪じゃないんです」と言われました。 意味がわかりませんでしたが、S先生がそうしておく以上、ともかくそういう恐れはないのだろうと思いました。 そして、人を病原菌をまきちらす存在かのように言うものではないと、このあとわかります。 夕方O先生がやってきて、先日の便の検査で悪玉菌が出たと言われました。 それがどういうことか、最初はわかっていませんでした。 私のいる病室の入り口に「ゾーンC」という表示が付きました。 看護師さんはそれ以降、ビニールのエプロンをつけて病室入ってきて、出て行くときに捨てて行くようになりました。 つまり、私こそが病原菌をまき散らす存在だったのでした。 これは、同じ病室の人に対しても、心苦しいことでした。 なんとなく、子どもの頃に、犬の糞を踏んだりすると「わー汚い!めんき」と言われた、遊びともいじめともつかない出来事を思い出したりしました。 ところで「めんき」の遊びは、全国にあるようですが、いい方が違うと思うので、ちょっと調べてみました。 代表的なところは「えんがちょ」「バリア」など。 北海道だと「ビッキ」「ピッコロ」「えった」などの言い方があり、青森では「ピースバリア」と言うそうです。 岩手は不明。 大阪は「ぎっちょ」など。 「めんき」は名古屋周辺ということでした。 この日から「バンコマイシン」という薬を1日4回飲むようになりました。 腸内の感染症に効く薬ということでした。 #
by 3839ttsy
| 2019-01-08 19:24
| 白血病からの復活(闘病日記)
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4回目の治療は、3回目ほどスムーズではありませんでした。 メンタル的な部分もあったのかもしれません。 シェアオフィスの入居者から苦情があったり、そのために、私のかわりに動いてくれていた彼女と喧嘩をしてしまったりして、治療開始から1週間ほど心穏やかでない日が続きました。 また、仕事の電話がかかって来るようにもなっていたし、私のほうから電話をすることもありました。 抗がん剤投与中は、気分が悪くなり、また一時、便通が悪くなりました。 そして、その後は腹痛が起こるようになりました。 治療開始から4日目、お風呂を出た時、看護師さんから「顔が赤い」と言われました。 その看護師さんは、化粧で目の下を赤くしている人でしたが、こちらのほうが赤いと言われるとは思いませんでした。 同じ部屋にいた、一番美人の看護師Kさんもやってきて「んだ」と言っています(Kさんは時々方言が出ます)。 とりあえず、休んでおくように言われ、1時間ほど寝ていると、またKさんがやってきて「赤くなくなりましたね」と言いました。 6日目、抗がん剤のシタラビン投与が終了。4回目にしてようやく薬の名前を覚えました。 同時にインシュリン注射も終了しました。 点滴ハンガーから機器が取り除かれ、すこしすっきりもしました。 シタラビンは24時間かけて投与するので、寝ている時も点滴がつながっていましたが、それもこれで最後です。 7日目ごろになると、いつものようにお尻が痛くなってきて、それだけではなく尿道や、背中、胸も痛くなってきました。 また、口の中がヘンな味になる現象もはじまり、口の中を噛んでしまって、口内炎も出来そうでした。 なんだか副作用の集大成という感じがします。 ある時から、私の部屋の担当として、産休明けで日中のみの勤務の看護師さんが来るようになりました。 赤ちゃんが生まれた直後のお母さん特有の、やさしい雰囲気をたたえていて、癒されました。 いつも微笑みながら部屋に入ってきて、話し方もゆっくりです。 その看護師さんが、看護学生さんを連れてきて、見学するのでよろしくお願いしますと言いました。 血圧を測りながら「うふふふ」と笑うので、どうしたのかなと思ったら「若くていいですよね」と言っていました。 自分が学生の頃のことを、なにか思い出したのでしょうか。 すると突然、後ろに立っていた看護学生さんが「体調が悪いので休ませてください」と言い出しました。 看護師さんが「あら、じゃあ待機室に行って休んで」と言い、学生さんが力なく「はい」と言って出て行こうとしました。 その瞬間、立ちくらみでもしたように、出入口の横にあったゴミ箱に倒れ込んでしまいました。 看護師さんは、それでもまだ微笑みながら「あらあら」と言って、学生さんを外へ連れて行きました。 私はしばらくの間、ぼうぜんとしてしまいました。 看護師さんが戻ってきたので「大丈夫ですか?」と聞いたら、貧血ではないかということでした。 11月9日、治療開始から8日目、腹痛をO先生に訴えると採血され、翌日、便の検査が行われました。 便の検査は、自分で歯間ブラシのようなもので採取します。 便が水につからないように、紙のようなものを水がたまったところにかぶせ、おしっこのほうは例によって、コップで受けます。 便と他のものが混ざらないためです。 少なくとも採取するまでは、ウォシュレットも使えません。 お尻が痛かったので、ウォシュレットを使いたいところでしたが、仕方なくそのまま紙で拭くと、なんと血がついていました。 衝撃でしたが、もしかするとこれまでも血が出ていて、ウォシュレットを使っていたので気が付いていなかったのかもしれません。 午後になると熱が、例の感染が疑われる37.5℃ラインを超え、抗生剤の点滴が始まりました。 検査でも血が混じっていたようで、O先生から、そこから感染があったのではないかと言われました。 #
by 3839ttsy
| 2019-01-07 11:05
| 白血病からの復活(闘病日記)
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翌日、4回目にして最後の抗がん剤投与が始まりました。 点滴には、看護師さんが腕時計を見ながらスピードを調節するタイプと、機械を通して落すタイプがあります。 抗がん剤の場合は、2種類のうち1種類がまる1日かけてゆっくり落とすタイプのため、機械を使います。 必然的に治療初期には、仰々しい感じの設えになります。 3日間の抗がん剤投与が終わると、やがて機械が取り払われ、重病人っぽさが軽減していきます。 抗がん剤は一度は体に巡らせるものの、基本的には毒のようなものなので、すみやかに排出させて、少しでも体の負担を抑えるためか、生理食塩水を同時に点滴されます。 そうすると、おしっこが大量に出て、その量も計測されます。 一定期間は、屋外で販売するビール用ぐらいの、大きめの紙カップにおしっこを入れて、自分の名前の書いたビニール容器に移し替えないといけません。 通常だと考えられないほどの量が1回で出るので、ビール用の紙カップ1杯におさまらず、2つ目を使ったりもします。 片手は点滴ハンガーを押さないといけないので、1つずつしか運べず、2つあると、2往復することになります。 これは不便なので、もっと大きいカップにしてくれればいいのにと思いましたが、私が普通の人より、膀胱が大きいのかもしれません。 実は昔からそうではないか思っていたのですが、やはりそうなのかなと思いました。 体重を計測して、先生が計算した数値より重いと、利尿剤を投与されることになっていましたが、それは2回目の治療以降はありませんでした。 1ヶ月もすると忘れてしまうのですが、夕食前、看護師さんが、バイオハザードのような、恐ろしげなマークが入った箱を持ってきて、「あっ!」と思いました。 血糖値測定です。 さっそく規定値をオーバーし、二の腕の外側にインスリン注射を刺されました。 細い針で、薬も少量なので、そんなに痛いものではないのですが、看護師さんによっては針を刺してから、本体をぶらしてしまい、そうすると針を刺したまま少しこじるような形になるので、後でしばらく痛い時もあります。 この日は、仕事関係のメッセンジャーでのやりとりの中で、行き違いがあり、夜中の3時まで眠れませんでした。 もはや、病気のことだけ考えて、仕事のことを何も考えないというわけにはいかないような心境になってきていました。 1か月後には、病ではなく社会と闘っていかなくてはならなくなる、そんなことを感じました。 ありがたいことに、入院中であることを知っているにもかかわらず、地元の鈴鹿市のほうで仕事のご依頼もいただきました。 実務のほうは、鈴鹿市の会社のほうにいる社員が担当していましたが、その内容をメールで確認して、メールで修正指示するようなこともしていました。 また、整備中のシェアオフィスを4月にオープンさせるため、3月中に工事をする必要があったのですが、その準備もしていました。 具体的には入院前に一連の図面を描いたものの、予算をより圧縮したいと思い、図面を描き直しました。 そしてその図面を工事業者さんに、なるべく早い時期に送りたいと思っていたのでした。 抗がん剤投与中は血糖値測定があるので、間食も控えました。 しかし、気を付けていても上がるものは上がるようで、ほぼ毎日ひっかかりました。 国立医大病院を舞台にした小説「白い巨塔」は、長編ということもあり長持ちしましたが、この頃、読み終わりました。 昭和の時代の物語であり、現在とはだいぶ違っているところもあると思いますが、病院というところがどういうところか、理解度が高まったように思いました。 たとえば、主人公の財前五郎が、助教授から教授にのし上がることが前半のテーマになっているので、先生の名札に書いてある役職が気になるようになりました(笑) また、終盤では財前自身が病気になってしまい、部下の医師に注射をされるのですが、部下が緊張して何度も失敗するシーンがあります。 注射は誰でも失敗するものなんだと思ったし、さすがに医師である財前は、以前、点滴の針を7回ぐらい刺しなおされて弱音を吐いた私と違い、全然苦にはしていませんでした。 もちろん財前は架空の人物ではあるのですが「これからは自分もかくありたい」と思うようになったのでした。 入院病棟では、家族待機室から泣いている声が聞こえたりして「死」を近くに感じることが多かったのですが、わずかながらロマンスもあったように思います。 点滴のCVポートは便利なようで今一つな発明品だと思うのは、腕に刺すのと同じで、結局針を刺さないといけないところです。 しかも同じところに刺しっぱなしだと問題があるのか、週に1回抜いて、刺し直しします。 これもちょっとは痛いので、少なくとも楽しいことではありませんでした。 ところが、意外にも楽しそうにしている人がいました。 CVポートへの針の刺し直しは、毎週同じ時間に、同じ部屋に集められ、数人同時に行われます。 先生も数人やってきて、それぞれ1人か2人の患者を担当します。 ベッドはカーテンで仕切られていますが、他のベッドの声は聞こえます。 その時は、廊下で何度か見たことのある、20歳前後の若い女性が同じ部屋にいて、やはり声が聞こえていました。 ポートの取替が痛いと言うので、S先生が息を吸って止めると痛くないよと答えていました。 でも、女性は「テープをはがすのが痛いんです」と言っていました。 ポートの回りは雑菌が入らないように、テープでべったりと貼って、ふさいでしまうのですが、取替の時は当然ながらはがすことになります。 内容はともかくとして、女性のほうは甘えたような声で話し、先生が何か言うたびに「うふふ、うふふ」と笑っているのです。 S先生も癒し系のキャラで、男性としては高い声なので、なんだか病室とは思えないメルヘンな雰囲気になっていました。 隣のベッドにいる人が「隣りは楽しそうだ」と言っているのも聞こえてきました。 その日の後、しばらくして、その女性がこれから退院するという様子で、私服を着て廊下に立っているのを見ました。 私の病室の前にいて、ちょうどベッドから見えていました。 誰かを待っているようでしたが、S先生が通りかかると「S先生、話があります」と駆け寄りました。 S先生が、やや狼狽して「え、なになに、どうしたの」と言い、2人は食堂のほうへ歩いていきました。 すごく気になったので、食堂へ行くふりをして見に行こうかと、ちょっと思ったりもしましたが、さすがにそれはしませんでした。 #
by 3839ttsy
| 2019-01-06 14:55
| 白血病からの復活(闘病日記)
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これは未だによくわからないのですが、再入院した11月1日、最初の治療は歯石の除去でした。 白血病とは関係がないように思うのですが、親知らずの周囲が腫れた関係で、何度か診察をしてくれた歯科の先生が、親知らずを抜いた後「今度は歯石の除去をします」と言っていたのでした。 そういう意味では、親知らずを抜いたのは2ヶ月前だったので、ようやく実現したという感じでした。 これも副作用なのかどうかわかりませんが、入院中は歯垢がすごくたまりやすくなっていました。 普段は1日1回しか歯みがきしないのですが、この時は毎食後3回、歯を磨きました。 磨かないと気持ち悪かったからです。 確かに歯石を取った直後は、かなりすっきりしました。 その後、退院前にO先生から宣言されていた「ルンバール」が、予定通り実施されました。 目的は以前聞いたところによると、脳に異常がないか検査をするためということでした。 レントゲンと心電図を取った後、治療室に向かいました。 治療室に行くと、看護師さんから「看護学生が研修で来ているので、見学させてもいいですか」と聞かれ、ダメだとも言えないので「いいです」と答えました。 腰椎に針を刺して、脳脊髄液を抜き取るという、いかにも恐ろしい内容の検査に対する不安に、たくさんの若い女性の前で、醜態をさらさないようにと気を使う、心理的プレッシャーが追加されました。 看護学生さんは10人ぐらいいたでしょうか。 みんなマスクをしていて、何も話さず無表情なので、これからある意味、痛めつけられる身分の者としては、無言の圧力の様なものも感じます。 退院直前に「夜勤のほうに回る」と聞いていた、傾聴看護学生さんもいて、そちらは癒しになりました。 間もなく、先生がやってきて説明がはじまりました。 ルンバールは腰椎の隙間に針を刺すために、「患者さんの協力が不可欠です」と言われました。 具体的には、横向きに寝て、腰を丸め、お腹にいる赤ちゃんのような体勢になってください、ということでした。 いつもやっている骨髄穿刺(マルク)と同じように、まずは麻酔をして、痛くなくなったことを確認すると、腰の真ん中の骨のところに針が刺されました。 麻酔のおかげでそれほど痛くはないとはいえ、重要な神経が通っているところなので、圧迫感というか、しびれ感というかがあり、ひとつ間違えば大変なことになりはしないかと、とても不安な感じがします。 1回目はうまく出来なかったのか、少し下のところに麻酔をして、また腰骨の隙間に針が刺されました。 こういうやり直しは、これまでの経験からもイヤなもので、さらに不安が募ります。 2回目はうまくいったようで、脳脊髄液の採取が行われているようでした。 マルクより時間がかかるようで、とにかく、早く終わってほしい一心でした。 しばらくすると採取のほうもうまくいったようで、針が抜かれ、ほっとしました。 気が付くと、上になっていたほうの半身は汗びっしょり。 看護師さんに「すごい汗をかいてますね。怖かったんですね」と言われました。 しかし、怖いのはその後でした。 先生と、無言の看護学生さんがいなくなり、傾聴看護学生さんだけが残って「大丈夫ですか?」と聞きました。 その頃から、だんだん下半身がしびれて来ました。 「下半身がしびれて動かないです」というと、傾聴看護学生さんが先生に言いに行きましたが、間もなく戻ってきました。 その間に、しびれがピークに達し、表現するのが難しいのですが、腰から下全体が細かく振動して、3倍の大きさに膨張して、全く動かすことが出来ないというような感じでした。 しかし、先生は「放っておいて大丈夫」とでも言ったのか、傾聴看護学生さんはなんの伝言も持って帰りませんでした。 しびれはもう少しすると、だいぶおさまりましたが、次の不安は頭痛でした。 以前、前のベッドにいた構造設計者の人が、ルンバールの後、1週間ぐらい頭痛が続いたと言っていました。 先生も検査の前に、頭痛が起こる人もいると言っており、自分は起こらない人であることを祈るばかりでした。 頭を起こすと頭痛が起こるので、しばらく寝ているように言われ、その場で1時間ほど寝て、自分のベッドに戻った後も、何時間か寝たまま過ごしました。 そのためか、幸いにも頭痛が起こることはありませんでした。 また、聞いたのは後日のことになりますが、検査の結果、脳にも異常はないということでした。 明日から抗がん剤投与が始まるので、CVポートに針が刺され、生理食塩水の点滴もありました。 ああ、またしばらく、大量おしっこ生活が始まるのか…と思いました。 #
by 3839ttsy
| 2019-01-05 11:02
| 白血病からの復活(闘病日記)
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退院の翌日は、比較的穏やかに暮らしました。 彼女と一番美人の看護師Kさんに教えてもらった、釜石の南隣り大船渡のカフェに行き、おすすめの肉汁たっぷりハンバーグを食べました。 斜面に民家がならんだ小さな集落の中にあり、なかなか見つけにくいのですが、海とのどかな集落の風景が見えるロケーションも素晴らしいお店でした。 その頃は、あちらこちらの木に実った柿が見えていて、海の青とのコントラストもよかったです。 その後、さらに南下して陸前高田に新しくできたアバッセ高田に行きました、地元の仮設で運営していて再開した商店などや、スーパー、本屋さんが並ぶ複合施設で、コミュニティスペースもありました。 そのコミュニティスペースが、建築家伊東豊雄さんが設計したという建物で、思いがけずいいものが見られました。 一方、記憶によればその辺りに、同じく伊東豊雄さんが関わった、仮設に住む人のための集会所「みんなの家」があったはずなのですが、かさ上げに伴いすっかり地形が変わって、なくなっていました。 夜は家で、彼女の作ってくれたきりたんぽ鍋を食べ、早めに就寝しました。 翌日10月29日は、前回の退院の時にイベントで塗り替えたシャッターを、もう一度塗りました。 自分でペンキなどを塗ったことがある人はわかると思いますが、塗装は一度では仕上がらないことが多いです。 1回目の塗装だけでは、まだ地が透けていたので、2回塗りを行うことにしたのでした。 この時はハロウィンが近いということで、仮装DIYイベントということにして、参加者を募ったところ10名近い人が参加してくれました。 みんなでシャッター塗装をして、お昼はたこ焼きパーティーをしました。 シャッター塗装が終わると、今度は四分の一ほど残っていた、シェアオフィスの床張りもしていただきました。 日が暮れるまで作業していただいて恐縮でしたが、予定より3ケ月遅れで、ついにシェアオフィスの床が完成しました。 私は足手まといになりそうだったので、床張りには手を出さず、体力がないなりに、休み休みしながら、前日買っておいた2×4(ツーバイフォー)材を切って、机の製作をしたりしていました。 机は入院中に、彼女が人出を募って2台作ってくれたのですが、あと2台必要でした。 その後は、我ながらスケジュールをつめすぎのような気もしましたが、所属している劇団のミーティングへ。 このミーティングは、3月の公演のためでしたが、私は出演できるかどうか、この時点では、まだわかりませんでした。 次の日は、入院中に下書きをしてあった、釜石大観音仲見世構想2017のwebページをチェックして公開したり、ブログの更新(過去の日記)をし、昨日に引き続き机と、イスの組み立てをしました。 イスは既製品でしたが、多少の組み立てが必要でした。 夜には彼女に心配されましたが、気仙沼で開催されたイベントに参加。 陸前高田のさらに南、車で1時間以上の距離でしたが、無事、行って帰って来ることが出来ました。 ところで、車の運転は出来るのですが、ちょっとした問題がありました。 それはシートベルトが出来ないこと。 右胸の上のほうに埋め込んである、点滴のためのCVポートに、シートベルトが丁度あたって痛いのです。 仕方がないので、本来の位置と違うのですが、脇の下にはさむような形で、シートベルトを着用していました。 もしパトカーに止められたら、事情を言って許してもらうしかないかなと思っていましたが、幸い止められることはありませんでした。 CVポートは右腕を使う作業にも影響し、重いものを持ったり、繰り返し力を使うと後で痛くなります。 退院後5日目の10月31日、机と椅子の組み立てが完了し、ケーズデンキで掃除機を買ってきて清掃を行い、シェアオフィスの2階の体裁がとりあえず整いました。 プリンターとwifi、電源はもともとありましたが、床が半分しか仕上がっていなくて、まだ工事中という感じだったのが、オフィスっぽくなりました。 その後、仕事場のほうへ行き、設計だけして、工事のほう(監理)をバトンタッチしてしまっていた建物の仕上げを選びました。 設計段階では、仕上げの色などは決めないで、工事の段階で決めるのが通例です。 その部分を人に任せると、イメージしていたものと違うものになってしまう可能性が高いため、出来る限り選びたいと思ったのでした。 バトンタッチしたTさんはセンスのいい人なので、任せても大丈夫だろうとは思っていましたが、やはり自分で選べてよかったと思いました。 明日から再入院、いよいよ最後の治療になります。 #
by 3839ttsy
| 2019-01-04 19:57
| 白血病からの復活(闘病日記)
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