建築・企画・設計・監理
(株)宮崎建築事務所 〒510-0242 鈴鹿市白子本町5-29 TEL:059-368-3330 宮崎達也 HP:http://miyazaki-archi.nobushi.jp/ mail:3839ttsy@gmail.com カテゴリ
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![]() こちらは都市計画事業に伴い、既存の建物を建て替える予定だったのですが、都市計画事業の変更によって取りやめになった計画です。 角地に立つ、商業施設。 2010年ごろに計画していました。 ちょっと表現するのが難しくて、水彩でうまく描けなかったのですが… 鋼板を地元白子の天然記念物である「不断桜」をイメージした模様に切り抜き、伊勢型紙に使われる和紙の柿渋色に着色するという提案。 鋼板を切り抜いて伊勢型紙のように表現するというアイデアでしたが、鋼板を切り抜いて、店舗やビルのファサードに使うことは、それほど珍しくはありません。 上記の私の描いた絵だけでは伝わらないので(笑)名古屋で見かけた、こういった写真をお見せしながら説明しました。 #
by 3839ttsy
| 2020-01-13 19:37
| アンビルド
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![]() 私にもお蔵入りになった計画案があり、気が付くと結構なボリュームになってきました。 それらの案(アンビルド)が、後の実作に影響を与えていることもあり、無意味だとは思っていないのですが、なんだか埋もれているのはもったいないなと思い、順番にこのブログで紹介していくことにしました。 今回はその第1弾。 2013年ごろ、四日市の某所に計画した、分譲形式の集合住宅です。 土地オーナーさんが2階に住み、長屋形式の1階を分譲。 土地オーナーさんの家以外の2階部分は共用施設と、屋上広場になっています。 共用施設には、半屋外の東屋や、露天風呂もあります。 住戸はスケルトン形式で、入居者が内装を行うという想定をしていました。 カーシェアリングも構想の中に含まれており、高齢の方が助け合って暮らすというコンセプトの共同住宅でした。 オーナーさんからの依頼を受けて、計画を作成しましたが、ご病気になってしまい、実現しませんでした。 ご病気にならなかったとしても、難しかったかもしれませんが、本当に作ることが出来たら、建築としてというよりも、コンセプトとして今までにないものになったと思います。 なお、この頃のイメージスケッチは、水彩絵の具で着色しているものが多いです。 #
by 3839ttsy
| 2020-01-11 15:39
| アンビルド
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前回の日記に書いた、大阪市阿倍野区のバイローカルマーケットに行ったときに、地図を見ながら街歩きをしました。 マーケットの会場近くの駅が南田辺であることから、ちょっと気になっていることがありました。 それは、和歌山県にある田辺(紀伊田辺)と関係があるのかということです。 和歌山県の田辺には昔行ったことがありました。 11年ほど前になりますが、熊野古道のことを調べていた時です。 田辺から熊野本宮まで、熊野古道の中辺路(なかへち)を歩いたことがあったのでした。 熊野古道は京都から熊野大社に向かう道のことであり、現在は古道として残ってるわけではないとしても、もともとは京都から続いていました。 南田辺は紀伊田辺に向かうJR阪和線の駅であり、昔の街道も同じようなルートだったと思われることから、名前が同じなのは、なにか関係があるのではないかと思っていたのでした。 その後街歩きで、それを裏付けるものを発見しました。 阿部王子神社です。 王子というのは、熊野古道に特有の言葉なのだと思うのですが、神社のことです。 神社と言っても、今は山道の脇に小さな石像が残っているだけだったりします。 このような王子が作られたのは12世紀から13世紀ということです。 これはやはり、あの「王子」なんですね。 九十九王子と言われるように、熊野古道沿いにたくさんある王子ですが、第二王子社ということは、位の高い王子かもしれませんね。 これは素晴らしい発見でした。 そして、この記事を書こうとグーグル地図を調べていたところ、もう一つ発見が。 京都の南部にも「京田辺」という地名があるんですね。 #
by 3839ttsy
| 2019-11-19 18:43
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なぜ突然、大阪のマーケットに行ったかというと、釜石で出会った人が主催していたからです。 11月2日から4日にかけて、リノベーションスクール@釜石が開催されました。 スクールの中で、3つのユニット(グループ)でそれぞれ遊休不動産の活用方法を提案しました。 ユニットそれぞれには、ユニットマスターというユニットを指導する人がつきます。 加藤さんは大阪市や、その周辺の市町(中には三重県の伊賀市なども含まれますが)で、特にマーケットを起爆剤として、リノベーションまちづくりに取り組まれています。 そんなマーケットの一つが、1週間後に、ご自身の居住地である阿倍野で行われるということで、行くことにしたのでした。 …といっても、釜石から行ったわけではなく、リノベーションスクールの3日後に、鈴鹿に戻っていたので、鈴鹿から行きました。 鈴鹿の事務所の近くの駅、近鉄白子駅から特急で鶴橋に行き、JRを乗り継ぐと約2時間で、南田辺駅に到着。 意外にアクセスしやすいです。 このマーケットの趣旨は、名前の示す通り「バイローカル」です。 バイローカルという概念は、やはり釜石で聞いたことがあったのですが(過去の日記)、日本で実践している事例は初めて聞きました。 地元(ローカル)で買う(バイ)ということですね。 英語だと短くて口にしやすい、いい言葉になりますね。 地方の経済を立て直すには、地元の商店で物を買ったり、飲食したりすることが効果的ということは、すでに多くの人が認識していることだと思いますが、わかっていても、どうしても大手チェーンなどで、お金を使ってしまいます。 サービスや、品ぞろえ、金額などの面で、地元の商店は不利ということもあると思いますが、それ以外の理由として「入りにくい」ということもあるのではないでしょうか。 そもそも商店街が衰退したのは、大型ショッピングセンターが郊外に出来て、そちらに人やお金が流れるようになったためということも、ずいぶん前から言われています。 つまり、かつての商店街や、空洞化する(空き家の多い)市街地には、バイローカルは欠かせない要素ということですね。 直接的に空き家をリノベーションすることも重要ですが、まずはバイローカルを推進するために、地元の商店によるマーケットを行うことを加藤さんは考えました。 「バイローカルの日」と名付けられたマーケットの目的は、一定のエリア内にある店舗に、そこに住む人に知ってもらい、親しんでもらうため、1年のうち1日だけ外で販売するということです。 従って、出店しているのは全て地元の事業者さん。 約50店舗がJR南田辺駅の近くにある、長者池公園に並んでいました。 お客さんがどこから来たのか、シールを貼ってもらう地図が入口にあって、ほとんど地図の中の2㎞四方ほどのエリアにから来ているということがわかります。 また、バイローカルの活動に参加している店舗がプロットされた地図を配っていて、そこには79店舗が掲載されています。 マーケットに出店している店もあれば「卒業」したお店もあるということでした。 こうして露店で営業することによって、地元の人と、地域のお店の人が出会う機会となり、マーケット以外の普段の日にも、お店に行くようになるということです。 確かに自分自身を省みても、地元なのに行ったことのないお店というのはあるし、そういうところは何かきっかけがないと入りにくいです。 その点、露店でお店の人の顔を見るだけでも、ずいぶん敷居が下がるのではないかと思います。 とはいえ、やはりお店が魅力的でないと、入る動機が弱くなってしまうのですが、このマーケットでは、どういうわけか全てのお店が魅力的でした。 もしかすると、マーケットに出店することによって、お店のみなさんも、よりよい商品の開発や、雰囲気作りに取り組むようになったのかもしれませんね。 マルシェやマーケットは最近、各地でさかんに行われていますが、このような明確な設計思想のマーケットはなかなかないのではないでしょうか。 都市計画家の加藤さんならではの、非常に優れた企画だと思います。 とても参考になりました! #
by 3839ttsy
| 2019-11-13 20:16
| まちづくり
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東日本大震災が起こった2011年以降、自然災害が増えました。 地震だと熊本地震がありましたし、長野や北海道や新潟などでも、震度6強以上の地震が起こっています。 そして、台風などによる豪雨災害が増えました。 洪水や土砂災害。 昔から人は平地で、特に川のあるところに町を作りましたが、平地や川の近くは山から流れてきた堆積物で構成されているため地盤が悪く、また大雨が降れば川の氾濫も起こります。 地震にも大雨にも不利な場所になるというわけですね。 平時であれば、街を形成しやすく便利な平地は、自然災害を受けやすいリスクを持っている。 でも、20年以上前は、自然災害というのは、ほとんど起こることがなく、リスクと便利さを天秤にかければ、便利さのほうが勝っていたのだと思います。 ところが、今年などは大雨の災害が立て続けに起こり、しかも台風19号に至っては、局地的でなく関東から東北の広い地域に被害をもたらしています。 これまでの常識が通用しなくなってきました。 天秤がリスクのほうに傾いてきている気がします。 私の住んでいる、釜石でもいたるところで土砂崩れがありました。 釜石に住んでからというもの「避難」ということを、考える機会が多くなっています。 そのため「どこに住めば安全か?」を考えるようになりました。 津波を考えればもちろん、内陸部がいいわけですが、釜石の場合、それは例えば中心地を流れる甲子川のそばということになります。 すると、大雨の際に、もしかすると甲子川が氾濫するかもしれないと思います。 また、高台のほうに行けば土砂崩れがあるかもしれないと思います。 今年の台風19号で、山のいろいろなところから水が噴き出して、崩れているのを見ました。 普段は沢ではないのですが、大雨だと沢になるところがあるとわかりました。 一方、高台や傾斜地でも全然被害のないところもありました。 よく見ると、それは尾根とか馬の背と呼ばれる部分でした。 雨が降ると、この尾根を頂点として、谷に向かって水が流れます。 そのため尾根の部分は、水害に遭うことがありません。 さらには、地盤としても固い部分になります。 水が谷に流れる際、山の表面も削っていくため、谷の部分には次第にその削れた石や砂や、落ち葉などの堆積物がたまります。 それが軟弱な地盤になります。 地震にも弱いし、谷の近くでは土砂崩れの恐れもあります。 さらに平地では、小さい川が集まってきて大きな川になり、堆積層(軟弱地盤の層)もより厚くなっています。 また、川が氾濫すれば平地ではたくさんの建物が浸水被害に遭います。 一方尾根は、頂点なので削られることはあっても堆積物がたまることはないため、地盤は極めて強固で、地震に強く、土砂崩れも、洪水の被害も起こりようがありません。 そんな発想から、災害に強い都市計画を考えてみました。 それは、こういうイメージになります。 東日本大震災があったところでも、津波の被害があった地域は、住宅は建てられず、工場や商業地としては活用できることになっていますが、同じような発想です。 農地、工場、商業地は水害や地震被害に遭う可能性はありますが、住宅地の安全は守られます。 地震はともかくとして、水害であるなら、現代の予想はかなりの精度です。 危険だとわかれば、家に帰れば、それが避難することになります。 #
by 3839ttsy
| 2019-11-08 23:26
| 建築
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目当ては海士町長の大江和彦さんのお話。 釜石で開催されている、NEXT KAMAISHIという団体の勉強会に、数年前から参加させていただいています。 そのことについては、過去の日記でも少し触れています。 勉強会は釜石に研究のために定期的に足を運んでいる、大学の先生が、ボランティアで指導してくださっています。 まちづくりに関する本を読んで、レポートを書くというもので、提出すると先生が添削して、書き直しをします。 国語の勉強にもなり、この年になって基本的な文章の書き方を教わる機会もないので、積極的に参加するようにしていました。 ある時、隠岐諸島の一つの島である海士町のまちづくりについての本が課題になりました。 それは、現在の前の町長、山内道雄さんの著書で「離島発 生き残るための10の戦略」というもの。 それ以来、破綻寸前の状態から、全国から注目されるまちづくりの先進地となった、海士町についての研究がはじまります。 読書レポートに留まらず、産業や財政についての調査を行い、最終的には海士町に視察に行くことになりました。 それが今年の3月初めでした。 海士町視察の顛末については、先生以外に私を含む3人の塾生がそれぞれ、パワーポイントを使っての発表を行い、釜石市役所やまちづくりに関心のある市民の皆様、20名以上が聴講に来てくださいました。 また、「海士町がなぜ売れたか」について、その3人と、途中で参加することになった、高校の先生1名がそれぞれレポートを書くことになり、それが今月ようやく完成しました。 レポートはA4で5,6枚というボリュームで、当初はそれほど多くはないと思っていたのですが、先生の指導の下、論理的な構成と、ちゃんとした文章で、引用著書なども明確にして書かないといけないため、なかなか苦しみました。 海士町に視察に行ったときは、お会いできなかったのですが、今日の講演会でぜひ大江町長にお渡ししたいという1人の塾生の要望により、期限としてそれまでにまとめるというスケジュールになりました。 講演会のお話は、勉強会でかなり詳しく調べていたので、知っていることも多かったのですが、平成10年ごろから現在に至るまでの取り組みを、パワーポイントの図を交えて説明いただいたので、これまで学んできたことのおさらいにもなりました。 また、文章で読むだけではわからない、町長自らの語りによる熱意や迫力が伝わってきて、あらためて感動しました。 本で読んだり、インタビューで聞いただけではよくわからなかったことも「なるほどそういうことか」と思うところもありました。 特に、町長は数年前まで行政職員として働いていたため、行政職員がどれだけ熱い思いを持って、人一倍働いてきたのかということがよくわかりました。 海士町は「ないものはない!」という言葉をキャッチフレーズとして掲げていますが、最後にその言葉についての説明がありました。 私にはどうもうまく説明できないので、あえて説明は書きませんが、知れば知るほど、見れば見るほど、ネガティブなものではなく、堂々として誇らしく感じるようになってくるので不思議です。 海士町について学ぶことは、これで最後になるかもしれませんが、大江町長の熱い話を聞くことが出来て、本当に良かったと思いました。 #
by 3839ttsy
| 2019-10-24 20:14
| まちづくり
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今朝、妻に高田松原道の駅が、内藤廣さんの設計で完成したことを教えられました。 妻は建築の仕事をしているわけではないのですが、前職が新聞の文化面を担当していたことから、建築家のことなどを結構知っています。 恥ずかしながら全然知らなかったので、ホントかな?と思って、ネットで検索したところ、確かに内藤廣さんの設計という記事が見つかりました。 それを妻に見せると「あ、それ私が書いた記事だね」と言われました。 なんだか、孫悟空が筋斗雲で飛んで、お釈迦様からうんと遠くまで遠ざかったら、お釈迦様の手の中だったという逸話を思い出しました。 孫悟空と言ってもドラゴンボールではなく、オリジナルのほうですよ。 念のため… 妻は左右対称の、カメラに収まりきらないほど横に長い、シンメトリのデザインだと言っていました。 善は急げということで、さっそく、見に行きました。 三陸道のインターを降りると、今までの感覚だと左に曲がってまっすぐいけば着く感じだったのですが、道が変わっていて、何度も曲がりました。 以前の一本松駐車場の国道45号線をはさんだ向かい側に、それらしき建物がありました。 最初に見たときは、正直「これが内藤廣?」と思ってしまいました。 道路に平行に細長くくて四角い、普通の道の駅とか、サービスエリアの建物という感じに見えたのです。 ちょうど真ん中に駐車場に入る車道があり、駐車は左右に分かれるようになっています。 右側の駐車場に止めて、まずは建物の右端からアプローチ。 リン酸処理の亜鉛メッキ鋼板や、集成材?らしき型枠のR面取り柱、軒天井や一部の壁にふんだんに使われる杉材など。 思うのですが、大御所と言われる建築家ほど、大きい建物に向いていて、空間や建材の使い方がダイナミックで、リッチに見えます。 若手はどちらかというと、部分に力が入り、アイデアがあって面白いのですが、規模の小さい作品に向いているという感じがします。 建物は横に長くなっていますが、真ん中が一部屋外になっており、屋内空間は2つに分かれています。 私が最初に入ったほうの右側は道の駅で、物販などがならんでおり、左側は津波伝承館になっています。 この辺りから、だんだんと「さすがは内藤先生」という気分に変わってくるのですが、その水盤を左向きに回って、建物の正面側に来た時に、あることに気が付きました。 「あ、これは、もしかして…」 建物の正面側から、海の側にまっすぐな道がつづいていて、その先に階段があります。 後ろを振り返ると、施設の名称を書いた、コンクリートの塀のようなものがあり、さっき入ってきた道路が正面にあります。 とりあえず、入ってきた車路の外まで戻ってみることにしました。 その先には、以前、三陸道のインターまで続いていた道路があり、今は工事中のようでした。 国道を横断し、反対側の横断歩道に立つと、やはり間違いない。 「軸線ビーム」とは、ノンフィクション小説「磯崎新の「都庁」-戦後最大のコンペ」の中で、丹下健三さんの多用したデザイン手法として使われている言葉です。 平和記念公園の軸線デザインについては、過去の日記に書いてあるので、ご参照ください。 噴水と水盤という違いもありますが、水が真ん中にあることも似ています。 ![]() ![]() ![]() さらに湾の出口(?)、左右の半島の中心も軸線上に近いです(さすがにここは少しずれているかもしれませんが)。 つまりこの軸線は、津波が来た方角を指しているのかもしれません。 この徹底した軸線デザインには、かつての建築家が持っていたような、強いデザインの意志を感じます。 内藤廣さんは菊竹清訓さんの事務所に勤めていたらしく、丹下健三さんの弟子ではないようなのですが、この作品は丹下健三リスペクトといってもいいのではないでしょうか。 建物単体ではなく、建物の配置からランドスケープも含めて、一つのダイナミックな作品と言えるでしょう。 陸前高田に、また素晴らしい作品が出来ましたね。 ところで、階段を登った献花台からみて気が付いたのですが、この献花台があるのは、防潮堤の上なんですね。 各地で「海が見えない」と批判の多い防潮堤を、ポジティブにデザインに取り入れるのも、さすがという感じでした。 そうしなかったのは、立地的に不可能ということもあるでしょうが、そもそも奇跡の一本松は、10年ぐらいしかもたないそうなので、原爆ドームのように恒久的なものではないからでしょう。
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by 3839ttsy
| 2019-10-10 12:22
| 建築
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彼女とは2015年の11月から付き合っていました。 私も40代の半ばだったので、早く結婚しなければとは思っていたのですが、なかなか踏ん切りをつけるような機会がありませんでした。 入院は彼女が助けてくれなければすることが出来なかったし、入院中も救援物資を運んでくれて、突然言い渡される退院の時も、車で2時間以上かけて送り迎えしてくれました。 それまで彼女は別の家に住んでいたのですが、私が入院してからは、私に家に住んで家のことをしてくれるようになりました。 私の会社の新規事業だったシェアオフィスのDIYや、契約のこと、入居者へのさまざまな対応もしてくれました。 彼女は自分の仕事も忙しかったはずです。 退院してからは、彼女もそのまま私の家で暮らし、一緒に住むことになりました。 人からも「彼女に感謝しろ」とかなり言われましたが、そのせいというわけではなく、いよいよ結婚しようと思うようになりました。 再発の恐れがないわけではなかったので、むしろ彼女に迷惑をかけるかもしれないと思いましたが、再発しない可能性のほうが高いことを考えると、そっちに賭けたほうがいいと思いました。 彼女はそのつもりだったようでした。 母にその旨を伝え、2月の末に、彼女の両親に挨拶に行きました。 今、その時の写真を見ると、まだまだ髪も少なくて、やせて病気から完全に回復していない様子です。 しかし、会食の場に行って、彼女と結婚したい気持ちを伝えると、彼女の両親は快く結婚を認めてくれました。 彼女の母は涙を浮かべていました。 両親から、こんな話も聞きました。 私が入院したすぐ後に、彼女は以前からあった用のために実家に戻りました。 彼女は何もしゃべらず黙り込んでいて、いつもと違う様子に両親が問いただすと、私の入院の話をして、泣き出したということでした。 私の前ではそんな態度は見せなかったのに、それほどショックだったのだと、その時初めて知りました。 結婚式はせず、入籍だけすることにして、日程はまた決めるということになりました。 その後、私のほうは5月にシェアオフィスのオープンがあり、彼女の仕事も6月、7月が忙しいということで、8月に入籍することにしました。 彼女の両親と、私の母とは、7月に東京で会いました。 8月にはそれまで住んでいた家を引き払うことになり、入籍の直前にあわただしく引っ越しをしました。 新築ではありませんが、リフォームしたばかりのアパートで、新婚生活にふさわしいように思い、私は満足していました。 覚えやすいということで8月8日に入籍。 去年とは打って変わって、なにもかもが素晴らしい1年となりました。 新規事業のみならず、元からの仕事のほうも順調で、経済的にも回復してきていました。 体調のほうは、ほぼ以前と変わらないのですが、やはり抗がん剤治療のダメージがあるのか、完全ではないように感じることもあります。 8月の終わりに、以前はなかったような頭痛がおこりました。 入院の前にも頭痛があり、その時の痛みに似ているような気がして、密かに再発を確信しました。 しかし、しばらくすると頭痛はおさまり「違ったのかな?」と思った頃、9月12日に検査がありました。 結果は問題なし、ただの杞憂でした。 最初の治療が終わって「寛解状態」になってから1年が経ったので、以前から希望していたCVポートの抜去をすることになりました。 K先生によれば1年目が一番再発の可能性が高いということだったので、最初のハードルはクリアしたということです。 翌週の9月18日に、外科の予約を取ってもらいました。 当日いつもと違う窓口に行き、呼び出しがあって処置室に入っていくと、さっそく手術になりました。 埋めた時に切開したところは「ケロイド」になっているということで、少し下を切ることになりました。 埋めた時と同じように、処置する部分に穴が開いたシートを顔にまでかぶせられ、麻酔注射が打たれました。 ポートの取り出しは、やや難航していたのか、少しずつ引っ張り出されるのに、けっこう力がかかっているように感じました。 痛くはないのですが、あまり気持ちのいいものではありません。 たぶん体に癒着していたのだろうと思います。 看護師さんが「○○を(聞き取れず)持ってきますか?」と言いましたが、先生は「もう少しだから」と言いました。 それから間もなく、ポートが取り除かれ、縫合になりました。 チクチクする感覚が何回かあったあと、手術は終了。 傷跡は絆創膏を貼っておくように言われました。 お風呂には当日は入らず、翌日は入ってもいいということでした。 一週間後に抜糸することになり、帰りに痛み止めを処方されました。 糸を抜くまでの1週間は、パソコンで長時間作業すると痛むので、あまり仕事ははかどりませんでした。 1週間後、抜糸した後は、本当にすがすがしい気分でした。 しかし、赤いみみず腫れの様な「ケロイド状態」はいつまで経っても治らず、少し痛みもありました。 12月の検査の時に、K先生に言うと「気になるなら皮膚科で診てもらうように」と言われました。 大したことではないようなので、まだほおっておいてあります。 検査は3ケ月から4ヶ月に1回のペースになりました。 年が明けて、2019年の1月2日、彼女改め妻が、私の親戚のあいさつ回りに、三重県にやってきました。 父方の親戚は、祖母も伯父もずいぶん前に亡くなり、存命だった伯母も12月に亡くなってしまったので、伯父の長男にだけ挨拶しました。 母方のほうは祖母が90代と高齢ながら元気で、妻を連れていくととても喜びました。 祖母の孫は、私と妹、母の妹の子が3人、母の弟の子が2人で、7人いるのですが、一番年上の私と、一番若い従弟だけが結婚していませんでした。 実はそれが長年の懸案事項だったのですが、祖母が生きているうちに結婚できて、こうして妻を会わせることが出来たのは、本当によかったと思いました。 翌日の1月3日、先に釜石に帰る彼女を、名古屋駅まで送っていくとき、意外な人からフェイスブックのメッセンジャーでメッセージが来ました。 一番美人の看護師Kさんでした。 釜石に初詣に行き、去年オープンしたシェアオフィスを見たということでした。 以前、一時退院の時にシャッターを塗り替えるイベントをしたと話したら、休日に見に行って写真を見せてくれたのですが、シェアオフィスはその隣の建物でした。 それを覚えていてくれたのです。 退院してから1年以上が経っても、毎日、顔を合わせていた看護師さんのことは、時々思い出します。 再入院しない以上、また会う機会はありません。 盛岡に行ったときは偶然に会ったりしないかと思いますが、そういうこともありませんでした。 誰ともフェイスブックやLINEでつながったりもしていなかったので、もはや会うことはないんだと思いはじめていましたが、思いがけない出来事でした。 さっそく返事をして、フェイスブックで友だち申請もしましたが、それからは返信もなく、友だち申請の承認もしてもらえませんでした。 数日後に見たら、「既読」にはなっていました。 (終わり) #
by 3839ttsy
| 2019-02-10 21:53
| 白血病からの復活(闘病日記)
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話は前後しますが、後遺症というほどでもないにせよ、生活に支障があることがありました。 それは、爪です。 抗がん剤治療が始まってから、爪が伸びるのが早くなりました(過去の日記)。 早いだけでなく、伸びてきた爪は、なぜか洗濯板のように波打っていました。 その理由はあとでわかりました。 退院してしばらくすると、抗がん剤治療を始めたころから生えてきた爪と、それ以前の爪が生え変わるようになりました。 なぜわかるかというと、以前の爪が指先に近づいたところで分離を始めるからです。 側面が割れ始め、中央の部分も亀裂が入ってきます。 伸びきってしまえばいいのですが、まだ指に付いている部分が割れてくるので、それを取ってしまうと深爪状態になってしまいます。 古い爪が伸びきって指から離れるまで、そっとしておかなくてはなりませんでした。 指によってバラつきはありましたが、2週間ぐらいの間は、ほとんどの指に絆創膏を貼って暮らしていました。 年が明けてしばらくして、全ての爪がはがれ、その時はすっきりしました。 抗がん剤治療が始まったのが、7月終わりだったので、5ヶ月ぐらいで爪が完全に生え変わったことになります。 生え変わった爪は柔らかくて、ある程度伸びると割れてしまうので、爪切りは頻繁に行いました。 洗濯板のように波打っていたのは、柔らかかったからだとわかりました。 強度が足りないため、爪でシールやセロハンテープのようなものをはがしたり、爪を引掛けて何かを開けたり、持ったりすることが出来ず、少し不便でした。 さらに5ヶ月ほど経った5月に、また同じように爪の分離が始まり、絆創膏を貼って暮らしましたが、2週間ぐらいで全部はがれて、今度はようやく普通の爪の状態に戻りました。 頭髪のほうは、退院後2ヶ月ぐらいで元に戻りました。 3回目の一時退院の時に打ち合わせをした劇団の公演は(過去の日記)、負担がかからないようにと、脚本のAさんがセリフの少ない、無口な人という設定の役を割り当ててくれました。 スキンヘッド状態だと、キャラが立ちすぎて支障があるのではないかと心配しましたが、3月18日の公演の時には、すっかり元に戻って、無事つとめることが出来ました。 いつも公演の前は、1ヶ月ぐらいダイエットをするのですが、この時はまだまだやせていたので、その必要はありませんでした。 思い返してみると、白血病の症状が出始めた時も、公演のためにダイエットをしていたので、しばらくの間、そのせいで体力が低下したと思いこんでいたのでした。 2月28日、大船渡病院で2回目の検査があり、感染の恐れがあるために、念のために飲むことになっていたと思われる薬は、この日から飲まなくてもよくなりました。 だいぶ健常者に近づいた気持ちになりました。 とはいえ、退院してからもずっとしていたマスクは、冬の間はするようにしていました。 DIYで整備中のシェアオフィスの作業中は、粉じんの防止のためでもありました。 3月の後半あたりから、オープンに向けてシェアオフィスの作業が忙しくなりました。 週末は1日フルで作業をしましたが、午後5時になると疲れ切ってしまい、それ以上は出来ませんでした。 予定していた4月には、工事が遅れたこともありオープン出来ず、5月の連休中に完成を目指していました。 4月の終わりごろから、ほとんど毎日作業に追われ、だんだんと疲れがたまってきました。 のこぎりで木を切ったり、釘を打ったり、ペンキを塗ったり、腕を使う作業を長時間行うと、CVポートが埋めてあるところが痛むこともありました。 しかし、なんとか体調も崩さずに5月連休中に、完成までこぎつけることが出来ました。 前の年の9月にオープンする予定でしたが、入院のために半年以上遅れました。 とはいえ、病気から立ち直り、新規事業がスタートできたことは本当にうれしいことでした。 口の中を噛んでしまい、口内炎が出来ることがありましたが、自覚症状として現れたのが、口内炎だったこともあり、治るまでは、いつも心配でした。 どういうものか、以前は口内炎が出来ると、かなり痛くて苦しんだのですが、退院後は出来てもそれほどひどくならず、比較的早く治るようになりました。 口内炎が治ると、再発していない証拠だと思い、毎回ほっとしました。 #
by 3839ttsy
| 2019-02-07 22:34
| 白血病からの復活(闘病日記)
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12月は徐々に普通の生活に戻していくような感じでした。 それまで、平日は何も用事がなければ夜11時まで仕事することに決めていたのですが、その頃は8時ぐらいまでにして、早く家にいました。 彼女が私が住んでいた家に引っ越していたので、夕食を作ってくれることもありました。 21日は現場の定例会議に参加し、別の設計の仕事も始まりました。 また、3月に公演予定の演劇には、参加するということで話が進みはじめました。 その頃には、頭髪なども戻っているだろうと… 練習は年明けからでしたが、忘年会があり、お酒も少しだけ飲んでみました。 でもやはりというか、あまり飲めなくなっていて、そもそも飲みたい気持ちがなくなりました。 実は輸血を受けている時に、秋田の人からの提供の血液などがあったので、もしかするとお酒を分解する能力がアップして酒豪になるのではないかと、バカなことを考えたりもしましたが、そんなことはもちろんありませんでした。 それにしても、たくさんの輸血をいただきました。 私は鈴鹿青年会議所に在籍していた時代に、献血は何度かしましたが、もっとやっておけばよかったと思いました。 たぶん、これからしばらくは…もしかするとずっと献血は出来ないと思うので。 劇団のメンバーが、退院のお祝いをしてくれて、カラオケにも行ったりしました。 少しずつ普通の暮らしを取り戻していったという感じです。 年末には実家に帰り、年明けには彼女と、仙台旅行に行き、念願の温泉にも行くことが出来ました。 一時退院の時には、感染が心配なので、温泉は行かないように言われていました。 退院するときも、血液の数値が本調子でなかったので、しばらくは行かないようにしていましたが、その頃には、もういいだろうと思いました。 でも、マスクはするのが癖になっていて、冬の間は、念のためするようにしていました。 1月10日、2回目の検査があり、今度は大船渡病院のほうへ行きました。 釜石から大船渡までは車で40分程度で、盛岡の岩手医大付属病院と比べるとかなり近いです。 駐車場も十分にあり、建物が新しいです。 これなら通院も楽だと思いました。 血液内科の受付に予約表と保健証を出すと、しばらくして看護師さんに名前を呼ばれ、採血をしてくるように言われました。 採血が別のところで、まとめて流れ作業で行われるのは、医大病院と同じでした。 私の場合は、採血だけでなく、CVポートに生理食塩水を流す「フラッシュ」と呼ばれる処置がありました。 CVポートは、点滴を受けるプラスチックの容器から、管が出ていて、血管にささっています。 その管がしばらく放置すると詰まってしまうので、ときどきフラッシュを行わなければならないのでした。 採血が終わると、ベッドのほうへ行き、処置を受けました。 看護師さんに「まだ(CVポートを)作ったばかりですか?赤いですね」と言われました。 私は「いいえ」と言いましたが、看護師さんはそれから何も言わなかったので、ちょっと気になりました。 処置が終わり、血液内科に戻ると、しばらく待ちました。 12月に行ったときもそうでしたが、血液検査の結果待ちは長いのです。 その時も1時間以上待ちました。 呼び出しがあり、診察室に入ると、入院の時に診断してくれたK先生がいました。 血液検査の結果は問題ないようでした。 また、前回の骨髄穿刺の結果も出ており、そちらも大丈夫のようでした。 今自分がどういう状態で、これからどういうことがあるのか聞かれ、O先生に聞いた通りのことを答えました。 すなわち、月に1回程度検査があり、1年ぐらい再発がなければ、3ケ月に1回程度になるということ。 5年間再発しなければ、完治とみなすということ。 そして、再発の可能性は1/4程度だということを言いました。 ところが、K先生は「(再発の可能性は)そんなに低くはない。1/3ぐらいの確率で、再発する」と言いました。 1/4と1/3では、客観的には大した違いはないように思われそうですが、当の本人にすると大きな差です。 O先生よりK先生のほうが、年齢も役職も上で、知見も豊富であると思われるので、そちらのほうが正しいように思われました。 これはなかなかのバッドニュースでした。 それまで飲んでいた薬は、まだ飲むように言われました。 私はCVポートが早く取りたいという話をしましたが、まだ早いようで「半年ほどしたら考えましょう」と言われました。 後でわかるのですが、1年間は再発の可能性が高いようで、その間は、取らないほうがいいと、K先生は考えていたようです。 CVポートが埋まっているうちは、右腕を使う作業や、運動は控えめにしないといけないし、登山をしようと思っても、リュックサックがそこに当たるので、痛くて背負うことが出来ません。 シートベルトも当たるので、わきの下を通すようにしており、パトカーとすれ違うたびに、止められはしないかと思います。 次の診察は1か月後と言いつつ、実際には1か月半ほど先の2月28日になりました。 診察が終わり、診察券を受け取ると、それを自動支払機に入れて、支払うように言われました。 このあたりは、医大病院と同じようです。 自動支払機に診察券を入れると、思った以上に高い1万円以上の請求になり、これが毎月というのはなかなかきつい…まだまだ自分は病人として、ハンデを背負わないといけないのだと、改めて思いました。 その後、薬局に行き、また大量の薬をもらって帰りの道につきました。 朝家を出て、釜石に戻ったのは、お昼をかなり過ぎていました。 #
by 3839ttsy
| 2019-02-01 23:13
| 白血病からの復活(闘病日記)
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