建築・企画・設計・監理
(株)宮崎建築事務所 〒510-0242 鈴鹿市白子本町5-29 TEL:059-368-3330 宮崎達也 HP:http://miyazaki-archi.nobushi.jp/ mail:3839ttsy@gmail.com カテゴリ
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彼女とは2015年の11月から付き合っていました。 私も40代の半ばだったので、早く結婚しなければとは思っていたのですが、なかなか踏ん切りをつけるような機会がありませんでした。 入院は彼女が助けてくれなければすることが出来なかったし、入院中も救援物資を運んでくれて、突然言い渡される退院の時も、車で2時間以上かけて送り迎えしてくれました。 それまで彼女は別の家に住んでいたのですが、私が入院してからは、私に家に住んで家のことをしてくれるようになりました。 私の会社の新規事業だったシェアオフィスのDIYや、契約のこと、入居者へのさまざまな対応もしてくれました。 彼女は自分の仕事も忙しかったはずです。 退院してからは、彼女もそのまま私の家で暮らし、一緒に住むことになりました。 人からも「彼女に感謝しろ」とかなり言われましたが、そのせいというわけではなく、いよいよ結婚しようと思うようになりました。 再発の恐れがないわけではなかったので、むしろ彼女に迷惑をかけるかもしれないと思いましたが、再発しない可能性のほうが高いことを考えると、そっちに賭けたほうがいいと思いました。 彼女はそのつもりだったようでした。 母にその旨を伝え、2月の末に、彼女の両親に挨拶に行きました。 今、その時の写真を見ると、まだまだ髪も少なくて、やせて病気から完全に回復していない様子です。 しかし、会食の場に行って、彼女と結婚したい気持ちを伝えると、彼女の両親は快く結婚を認めてくれました。 彼女の母は涙を浮かべていました。 両親から、こんな話も聞きました。 私が入院したすぐ後に、彼女は以前からあった用のために実家に戻りました。 彼女は何もしゃべらず黙り込んでいて、いつもと違う様子に両親が問いただすと、私の入院の話をして、泣き出したということでした。 私の前ではそんな態度は見せなかったのに、それほどショックだったのだと、その時初めて知りました。 結婚式はせず、入籍だけすることにして、日程はまた決めるということになりました。 その後、私のほうは5月にシェアオフィスのオープンがあり、彼女の仕事も6月、7月が忙しいということで、8月に入籍することにしました。 彼女の両親と、私の母とは、7月に東京で会いました。 8月にはそれまで住んでいた家を引き払うことになり、入籍の直前にあわただしく引っ越しをしました。 新築ではありませんが、リフォームしたばかりのアパートで、新婚生活にふさわしいように思い、私は満足していました。 覚えやすいということで8月8日に入籍。 去年とは打って変わって、なにもかもが素晴らしい1年となりました。 新規事業のみならず、元からの仕事のほうも順調で、経済的にも回復してきていました。 体調のほうは、ほぼ以前と変わらないのですが、やはり抗がん剤治療のダメージがあるのか、完全ではないように感じることもあります。 8月の終わりに、以前はなかったような頭痛がおこりました。 入院の前にも頭痛があり、その時の痛みに似ているような気がして、密かに再発を確信しました。 しかし、しばらくすると頭痛はおさまり「違ったのかな?」と思った頃、9月12日に検査がありました。 結果は問題なし、ただの杞憂でした。 最初の治療が終わって「寛解状態」になってから1年が経ったので、以前から希望していたCVポートの抜去をすることになりました。 K先生によれば1年目が一番再発の可能性が高いということだったので、最初のハードルはクリアしたということです。 翌週の9月18日に、外科の予約を取ってもらいました。 当日いつもと違う窓口に行き、呼び出しがあって処置室に入っていくと、さっそく手術になりました。 埋めた時に切開したところは「ケロイド」になっているということで、少し下を切ることになりました。 埋めた時と同じように、処置する部分に穴が開いたシートを顔にまでかぶせられ、麻酔注射が打たれました。 ポートの取り出しは、やや難航していたのか、少しずつ引っ張り出されるのに、けっこう力がかかっているように感じました。 痛くはないのですが、あまり気持ちのいいものではありません。 たぶん体に癒着していたのだろうと思います。 看護師さんが「○○を(聞き取れず)持ってきますか?」と言いましたが、先生は「もう少しだから」と言いました。 それから間もなく、ポートが取り除かれ、縫合になりました。 チクチクする感覚が何回かあったあと、手術は終了。 傷跡は絆創膏を貼っておくように言われました。 お風呂には当日は入らず、翌日は入ってもいいということでした。 一週間後に抜糸することになり、帰りに痛み止めを処方されました。 糸を抜くまでの1週間は、パソコンで長時間作業すると痛むので、あまり仕事ははかどりませんでした。 1週間後、抜糸した後は、本当にすがすがしい気分でした。 しかし、赤いみみず腫れの様な「ケロイド状態」はいつまで経っても治らず、少し痛みもありました。 12月の検査の時に、K先生に言うと「気になるなら皮膚科で診てもらうように」と言われました。 大したことではないようなので、まだほおっておいてあります。 検査は3ケ月から4ヶ月に1回のペースになりました。 年が明けて、2019年の1月2日、彼女改め妻が、私の親戚のあいさつ回りに、三重県にやってきました。 父方の親戚は、祖母も伯父もずいぶん前に亡くなり、存命だった伯母も12月に亡くなってしまったので、伯父の長男にだけ挨拶しました。 母方のほうは祖母が90代と高齢ながら元気で、妻を連れていくととても喜びました。 祖母の孫は、私と妹、母の妹の子が3人、母の弟の子が2人で、7人いるのですが、一番年上の私と、一番若い従弟だけが結婚していませんでした。 実はそれが長年の懸案事項だったのですが、祖母が生きているうちに結婚できて、こうして妻を会わせることが出来たのは、本当によかったと思いました。 翌日の1月3日、先に釜石に帰る彼女を、名古屋駅まで送っていくとき、意外な人からフェイスブックのメッセンジャーでメッセージが来ました。 一番美人の看護師Kさんでした。 釜石に初詣に行き、去年オープンしたシェアオフィスを見たということでした。 以前、一時退院の時にシャッターを塗り替えるイベントをしたと話したら、休日に見に行って写真を見せてくれたのですが、シェアオフィスはその隣の建物でした。 それを覚えていてくれたのです。 退院してから1年以上が経っても、毎日、顔を合わせていた看護師さんのことは、時々思い出します。 再入院しない以上、また会う機会はありません。 盛岡に行ったときは偶然に会ったりしないかと思いますが、そういうこともありませんでした。 誰ともフェイスブックやLINEでつながったりもしていなかったので、もはや会うことはないんだと思いはじめていましたが、思いがけない出来事でした。 さっそく返事をして、フェイスブックで友だち申請もしましたが、それからは返信もなく、友だち申請の承認もしてもらえませんでした。 数日後に見たら、「既読」にはなっていました。 (終わり)
by 3839ttsy
| 2019-02-10 21:53
| 闘病記録(急性骨髄性白血病)
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