建築・企画・設計・監理
(株)宮崎建築事務所 〒510-0242 鈴鹿市白子本町5-29 TEL:059-368-3330 宮崎達也 HP:http://miyazaki-archi.nobushi.jp/ mail:3839ttsy@gmail.com カテゴリ
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昨日に引き続き、広島旅行編です。 広島平和記念公園の入り口で、軸線ビームに感動した後、その軸線に沿って歩き、原爆ドームまで行きました。 原爆ドームは「負の遺産」ということで、世界遺産にも登録されています。 しかし、実際に見てみると、建築物としても意匠性の高い、優れた建物だったのだと思いました。 チェコの建築家が設計した建物なんですね。 チェコには行ったことがありませんが、プラハの街並みは素敵だと聞くので、もともとは美しい建物だったのだろうと思いました。 ただ、表面のモルタルが剥落し、煉瓦積みの構造が露出、さらに地震などの影響か、その煉瓦も剥落しているので、今後の保全にあたって措置が必要だと思いました。 現在修復工事中なのか、足場がかかっており、内部には鉄骨で補強がしてありました。 原爆の恐ろしさを今に伝えるためのモニュメントだと思っていましたが、大きな木の生えた公園の中にあって、その朽ちてゆくさま、異国情緒のある佇まいは、それだけではないような感慨も覚えます。 それは意外なことでした。 その後、再び戻って、平和記念資料館へ。 原爆のことは、小学生の時などを中心に学校や課外授業などで、いろいろなことを教わりましたが、大人になってから、原爆について見たり聞いたりすることは、あまりなかったかもしれません。 おのずと、感じるところも違いました。 最初に心を揺さぶられたのは、広島ドームあたりを中心とした元の市街地の模型、そして原爆が落ちた後の模型を見た時です。 おそらく原爆ドームのような煉瓦か、コンクリート造の建物以外、何もありませんでした。 一部の橋もなくなっていて、橋げただけが残っていました。 こういう光景は、実際に見たことがあります。 他でもない東日本大震災の被災地です。 そのため、自分の中で原爆が落ちた後の街の、はっきりとしたイメージが浮かんだのでした。 たった一個の爆弾のために、本当にたくさんの家が跡形もなくなくなってしまった。 一軒一軒の建物に、建主さんがいて、大工さんが1年も2年もかかって木を削って建て、建前の時には餅を撒いて祝ったりしたことでしょう。 それが、たった一個の爆弾で一瞬にして… アメリカは警告もしなかったそうです。 先程、東日本大震災のことを書きましたが、そちらは少なくとも前兆や、津波の警報はあったはずです。 夏の晴れた朝、突然、空に巨大な火の塊がさく裂し、辺りは地獄のようになった。 資料館には、その時、現地にいた人が描いた絵も展示されていました。 説明文も付いていて、それを読むと一つ一つが胸に突き刺さるような内容です。 その数はかなりのもので、私がこれまで見たり聞いたりした話よりも、もっとすさまじく悲惨なものでした。 立ったまま亡くなった人や、白骨化した人もいたということです。 学校の校庭で並んだまま白骨化した絵があり「大きいものは○○先生か」と書いてありました。 おそらく、その学校の生徒さんだったんですね。 瓦礫に閉じ込められ、そのまま火事で焼かれた人もかなり多かったようです。 全身にやけどを負った人は、その日のうちに亡くなり、道路や川原は累々たる死体の山。 むかし「はだしのゲン」という広島の原爆を描いたマンガを読んで、その光景が子ども心に、大変衝撃的だったのですが、その内容を上回る絵もありました。 思った以上にショックを受けて、会場を後にしました。 外は「その日」を彷彿させるかのような、灼熱の日差しでした。 …さて、またしても熱が入り長くなってしまったので、この後、宮島に行ったことについては「つづく」にします~^^; (株)宮崎建築事務所
by 3839ttsy
| 2013-07-16 14:41
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